2007年3月17日
赤のある風景
すべてAsahi Pentax SP + Takumar 28mm/f3.5。
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2007年3月 7日
銀塩で散歩
日曜日、久しぶりに銀塩カメラを抱えて散歩。
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Painting of matiere (Leica III, Jupiter 3 50mm/f1.5, Fuji Super 400 FT)
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障子好きの家 (Leica III, Jupiter 3 50mm/f1.5, Fuji Super 400 FT)
カメラを抱えて歩いていると、普段気づかないものが目に入ってくる。
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2006年10月16日
オートクロームによる第一次世界大戦のカラー写真
第一次世界大戦のカラー写真である。
戦闘で破壊された家屋は捉えられていても、戦闘中の場面はない。牧歌的な雰囲気である。そこにかえって戦場のリアリティが感じられる。そして、色があるだけで、モノクロよりぐっとリアリティが増している。
これらの写真はいずれも彩度の低い独特の色調をもっている。モノクロ写真を着色したようにも見えるが、「オートクローム(Autochrome)」という手法による正真正銘のカラー写真である。
この手法を開発したのはリュミエール兄弟。シネマトグラフの開発者である。
映画の発明はエジソンのキネトスコープに遡ると言われることもある。じっさい、映画フィルムの規格は、キネトスコープ以来基本的に変わっていない。最初の劇映画もキネトスコープ向けに作られた。とはいえ、一人一人がのぞき込むキネトスコープに対して、複数の人びとに一斉に映像を見せるシネマトグラフが、その後の映画の原型をなしていることは間違いない。
オートクロームは1907年に発売された。
色を留めるには、光を三原色に分解する必要がある。最初期のカラー写真は三回撮影したという。たいへんな手間である。1930年代に映画用に開発されたテクニカラーという手法では、カメラに3本のフィルムを入れて同時に撮影した。
一つの感材に一回の撮影で色を記録するには、感材自体に三原色を個別に記録する仕組みが必要である。
現在のカラーフィルムは、複数の層をもった構造で、フィルム面に対して垂直方向に三つの色を記録する。それに対し、オートクロームは三原色の粒子状のフィルターを表面に配置し、感材(当時はフィルムではなくガラス乾板)の水平方向に色を記録した。
フィルターに使ったのはジャガイモのデンプンである。ジャガイモのデンプンを三原色に染め、それを均等に混ぜて、モノクロの感光剤の上に塗布した。現像は反転現像で、通常のネガ(実際の明暗と反転)ではなく直接ポジ画像を形成した。こうして記録されたガラス版を光にかざすと、なまなましいカラー画像が現れる。
当時の感光剤はオルソといって、赤の感度が極端に低かった。オートクロームは、赤も記録できるパンクロマチックの感光剤が登場したタイミングにも一致していた。
オートクロームの感材の感度は低く、露光時間は長かったことだろう。じっさい、このサイトに収められている作例の中には、昼間にもかかわらず人がブレているものがある。そして、ジャガイモのデンプンをフィルターにしたので、解像度は低く、大きなガラス乾板が必要だ。長時間露光に、割れやすい大きなガラス乾板に、大型のカメラ。機動力は低く、戦闘場面を撮影することは難しかったはずである。
オートクロームはアマチュア向け以上には普及しなかった。ポジ画像を直接得るため、写真技術による複製が作れなかったこと、また、ポジフィルムを原板とするカラー写真の印刷技術が普及していなかったことが理由として掲げられよう。三原色を垂直方向に記録するフィルムが登場した1930年代からは廃れていく。
なお、現在のデジタルカメラの撮像素子は、水平方向に三原色のフィルターを配置するものが主流である。解像度を下げるローパスフィルターが必要となり、輪郭には偽色が発生する。製造コストを低減できることから、画像処理技術で弱点をねじふせ、この方式が普及した。三原色を垂直方向に記録するFoveonという素子もあるが、採用しているのはシグマだけであり、マイナーな存在にとどまる。
化学処理から電子素子に写真技術がシフトしたところで、過去に廃れた手法が、再び使われているのである。光の明暗だけでなく、色を捉えるために。
附記1
写真に彩色することを「人着」といった。人着の写真は、自然さより、人工的な雰囲気が強いものが多い。文字通り、人工着色である。意識的に人工的に見せたというよりは、自然に見せることが難しかったのだろう。人着のあざとさを意識的に用いて華麗な彩色世界を作ったのが、ピエールとジルのカップルである。
附記2
exocamera-umoというサイトを参考にした。写真史というよりは、写真書史といった内容で興味深い。
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2006年5月 6日
ウシのいる風景
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2005年3月13日
Runabout with Rolleiflex 3.5E
3月の日曜日に、Rolleiflexを積んで自転車でひとっ走り。
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廃幼稚園(1) |
廃幼稚園(2) |
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新旧対決 |
冬木立 |
中版(6×6)で撮影したのは久しぶりで緊張した。ウェブの画面ではわかりにくいけど、Plannar 75mm/f3.5は暗いところに強い。フィルムは、KODAK Portra BW400。
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2005年1月 3日
新春の映像
森の中。家人のプライバシーを保護しようとしたら不気味になってしまった。
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2005年1月 1日
新・正体不明
赤瀬川原平の「新・正体不明」(東京書籍)を読んだ。いや、写真+文章なので、観て読んだ、というか。
前作「正体不明」はちょうど十年前だった。町中の珍妙な物件を写真と文章で紹介する趣向は基本的に変わらない。ただ、ご本人の後書きにあるように、十年前は物件そのものへの興味が先行していたが、今回はその細部に興味が移行している。結果として伝わるのは、雰囲気やたたずまい、すなわち風情とでもよぶべき領域である。
老人になるなら、こんな境地に達したいものである。
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2004年2月 2日
「木村伊兵衛と土門拳」展
昭和の写真家といえば、木村伊兵衛と土門拳。巨人、大鵬、卵焼きと同じくらいありきたりな組み合わせだが、最強であることは間違いない。「アサヒカメラ」でも連載記事で毎号掲載している。その二人の代表作を集めた展示である。さすがに雑誌や書物で見たことのある作品が多い。(有楽町朝日ギャラリー、3/3まで)
個人的には努力の人という印象の土門拳より、スナップの達人といわれた木村伊兵衛の洒脱さを好む。「西片町付近」や「東京・月島」など、被写体はただのつまらない街路なのに、写真の中で人々が芝居の書き割りのように見事に配置されている。
両人ともに人々の日常生活を捉えたスナップが印象的だ。もちろん、たんに古い風俗の記録というだけでなく写真としてすぐれているのだが、まず捉えられたディテールに目が奪われてしまう。都市、下町、農村、子供たち。空中写真では濾過されてしまう人間生活のディテールが記録されている。
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2004年1月20日
ホテル・エンパイア
1964年に竣工した日本初の高層ビルである(21階建て)。1990年代中頃まで営業していたらしい。
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2004年1月11日
招魂碑(4)
明治40年(1907年)に建立された招魂碑である。
1905年の日本海海戦で連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を撃破した。この碑で讃えられているのは、連合艦隊の旗艦である戦艦三笠の乗員である。といっても、厳密には戦死者ではない。日本海海戦における三笠の戦死者は8人にすぎないが、海戦の後、凱旋した佐世保港で火薬庫の爆発事故を起こして沈没し、339人が命を落とした。そのときの死者である。歴史的な大勝利の直後だっただけに、戦死と同様に扱われたのだろう。
なお、戦艦三笠の数奇な運命はこれにとどまらない。沈没から2年で引き上げられて現役に復帰したものの、1922年のワシントン軍縮会議の決議に従って廃船が決定され、1925年に日露戦争の博物館として保存された。ところが、1945年に占領軍からクレームを受けたため、平和的な施設に転用することで延命が図られた。艦橋、煙突、砲など、甲板にあるほとんどすべてのものが撤去された。砲塔の跡に水族館が設けられ、甲板にダンスホールが建設されたという。1952年、サンフランシスコ講和条約によって日本が独立を回復した後、ふたたび日本の国有財産になったが、荒廃はさらに進んだ。この時期の写真を見ると、さながら巨大な鉄屑である。復元が完了したのは1961年だった。
というわけで、現在の記念館三笠は本物の上に作られた模造品とでもいうべきものなのである。
このあたりの話は、木下直之の「世の途中から隠されていること −近代日本の記憶」(晶文社、2002年刊)という本を参考にした。これは、忘れられたり書き換えられたりした近代日本のさまざまなモニュメントを発掘する趣向の好著である。
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招魂碑(3)
この招魂碑は古い。明治13年、1880年に建立されている。
西南戦争の戦死者を讃えるものである。西南戦争は明治国家確立後の最後の内戦である。これ以降の戦争は対外的な戦争となる。この碑で讃えられている人物は熊本で戦死している。当時の関東の農村では熊本も異国と大差なかったことだろう。
なお、碑文には、納税と兵役が国民の義務となったといった記述が見える。明治初期の国民国家形成期の意識の一端が窺えて興味深い。
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招魂碑(2)
墓石だが、招魂碑と同じ意図で建立されたとおぼしき石碑を見つけた。
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ごらんの通り住宅地の道路に面した小さな墓地だが、左手に一基、右手に三基の石碑がある。いずれも個人の墓碑であり、後方の家代々の墓石とはまったく異なる意匠である。また、一基をのぞいてすべてが戒名ではなく俗名と軍の階級が用いられており、戒名が記された一基も俗名と軍の階級が併記されている。戦死者をとくべつに顕彰する意図が見える。三基並んだ墓碑は兄弟だろうか。
投稿者 kmatsu : 22:35 | コメント (0) | トラックバック
2004年1月 6日
招魂碑(1)
近所には防空壕以外の戦跡もあった。
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これは農家の片隅に立てられている。碑面には「陸軍砲兵柏木仙蔵之碑」と彫られている。
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これは農地に立てられている。南方戦線で戦死した人物を讃えている。
いずれも墓地ではなく、道路から見える場所に単独で立てられている。戦死は、自然死、病死、事故死とは違う。お国のための名誉の死でもあれば、戦争に行かなければ避けられた死でもある。そんな思いが、異境でさまよう死霊を招き寄せて顕彰する碑を建てさせたのだろうか。六十年を経てなお碑の周囲は浄められ、花が供えられている。
なお、1869年、東京九段に招魂社という神社が建立された。それが、靖国神社に改められたのは10年後の1879年だった。
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2004年1月 1日
鳥獣保護区
これもFinePix F700による作例である。
それにしても、家の近所のこの地域、しばらく前までは鳥獣が保護されていなかったらしい。
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2003年12月31日
産地直売
Fuji FinePix F700の最初の作例である。
とても力強い産地直売である。道路の反対側にもびっしりと野菜の名前が掲示されていた。
最広角だが、タル型の歪みが見える。描写はしっかりしている。
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2003年12月28日
冬の夕方の光
拙宅のベランダである。
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(Rolleiflex 3.5E, Plannar 75mm/f3.5, Velvia 100F)
光が長く柔らかい。冬は、日没前後に、近所の写真を撮り続けている。ちなみに、オリジナルはこれほど赤くない。MONACO EZcolorでカラーマネジメントの精進を積むことが課題だが、これはこれで記憶色として面白い。
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冬の昼の光
冬の欧州、というわけではなく、近くの町である。
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(Rolleiflex 3.5E, Plannar 75mm/f3.5, Velvia 100F)
暗部がスカっとつぶれている。
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2003年12月23日
佐和九郎「現像の實際」
佐和九郎の「現像の實際」(アルス、1932年刊) という書物を近所の古本屋で購入した。
巻頭の自序が熱い。
「折角の労苦と、貴重なる時間を費やした撮影の結果は、その現像の適否により、或は酬ひられ、或は悲しむべき運命に陥ることは、公知の事実。随って、乾板フィルムの現像は、今日に至るまで、容易に極意をつかめない、甚だ難しい処理と看做されて居りました。
しかし、現像は、果たして困難なる処理であるか?
否! 否! 断じて否である。」(原文は正字)
著者の立場は終始一貫合理的である。乾板フィルム現像の目標は濃度を1対100程度の範囲に収めることであり、それは適切な露出を心がけていれば難しくないと主張する。そのため、フィルム膜面の銀塩粒子の顕微鏡写真やフィルムの濃度曲線などを援用するだけでなく、膨大な現像液処方データとその実施結果を掲載する。じつに700ページを越える大著である。
著者の佐和九郎なる人物に興味が湧く。自序の末尾には「黒澤研究所 佐和九郎」と記されている。いかにも「黒澤」をもじったペンネームくさい。また、奥付の検印には「黒澤志澄」なる印影が認められる。ウェブでざっと調べてみた。
この人物は、1935年から1950年代にかけて写真技術に関するさまざまな書物を著していた。ある記事には「酒井修一氏によれば、著者は本名黒沢志澄といい、銀座でタイプライター等を販売していたクロサワのオーナーであった。」とある。(http://www1.odn.ne.jp/~cdq67980/refe02.2.html) どうやら社長の道楽だったのだな、と推察できる。「銀座 クロサワ」で検索してみると、この会社はいまだに存続しているらしい。(http://www.kurosw.co.jp/profile/history.html)。なんだか嬉しくなる。
なお、銀塩モノクロの現像処理は基本的に70年前も今も大差なく、写真分野における光学技術と化学技術はこの時点で成熟していたことが実感される。とはいえ、ロールフィルムを両手にもって平皿(バット)の中の現像液に浸す方法が一般的だったなど、面白い事実も確認できた。もちろん、著者は「排斥すべき方法」と断じている。
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2003年12月21日
MONACO EZcolor中間報告
MONACO EZcolorがなかなか使いこなせない。
モニターのキャリブレーションはうまくいっているようだ。MacOS X 10.2には、色管理プロファイルをチェックできるColorSyncユーティリティというプログラムが添付されている。このプラグラムで、新規に作成したモニタプロファイルを、以前目視で作成したものと比べると、色空間の大きさは微妙に違うが、形状はほぼ相似である。
だが、プリンタプロファイルの作成に難渋している。プリンタの標準プロファイルに比べて明らかに、色がずれたプロファイルができあがってしまう。色見本データを印刷し、それを色見本(IT8ターゲット)と一緒にスキャナで読み込み、できあがったイメージデータをEZcolorに入力する。プリンタで印刷するときも、スキャナで入力するときも、すべての色管理をオフにするよう指示されているが、そのあたりに問題があるのだろうか。悩みは深まる。
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2003年12月20日
波打つ手すり
どうしてこんな手すりをつけてしまったのだろう。
View image (Leica III, Industar 50mm/f3.5, Kodak Portra 400BW
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2003年10月18日
夏の終わり
夏の終わりの光と影である。
View image(KONICA HEXAR, HEXAR 35mm/f2.0, Fuji Venus 400)
雨が多かった今年の8月の終わりころ、唐突に訪れた晴天日だった。空気が澄んでいた。
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2003年10月17日
廃診療所
廃診療所である。
View image (KONICA HEXAR, HEXAR 35mm/f2.0, KODAK Portra B/W)
小学生のころ喘息持ちだったので毎週通っていた。プラスチックの注射器をもらったこともあったな。廃業して10年くらい。先生が亡くなって1年くらい経つ。
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2003年10月12日
Walkabout with TENAX II
ツァイスイコンのテナックスというカメラを携えて散歩に出かけた。
1937年に作られたレンズ(カールツァイス・ゾナー40mm/f2)には、年齢の近い被写体がふさわしいようだ。
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2003年8月11日
産業遺構(交通)
1966年から1967年にかけて1年間だけ営業運行し、以後35年間にわたって「運休」扱いだったモノレールの遺構である。「運休」扱いだっただけに、放置ではなく最低限度の保守が施されている。
産業遺構1
産業遺構2
(いずれもハッセルブラッド500C, ツァイスディスタゴン50mm/f4, イルフォードXP2)
じつは昨年正式に「廃止」が決定された。長年の運休状態は終了し、遺構は撤去されるという。このモノレール沿線には、21階建ての日本初の高層ビルの廃墟もある。幼少期から慣れ親しんだ景色だけに残念である。
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2003年8月 8日
Monochrome with Crown Graphic
Crown Graphic (Ektar 127mm/f4.7)によるモノクロのテスト。
夏の午後1 (Presto400, f22, 1/10)
夏の午後2 (Presto400, f22, 1/100)
f22まで絞り込んでいるが、まだシャキっとしない。
じつは、ピントグラスはルーペを当てて無限遠が出ていることを確認した。ということは、フィルムホルダーのフィルム面と、ピントグラス面の位置の不整合か? 絞り込みによる回折か? それともブレか? 謎は深まるばかり。
ちなみに、モノクロフィルムは1枚90円程度だが、現像代は1枚600円だった。トータルで1枚700円弱。やはり自分で現像するしかないか。
2003年8月 3日
Botanicality
先週、ハッセルブラッドを担いで散歩したときの記録である。
レンズはすべて Plannar 100mm/f3.5で、フィルムは KODAK E100G。炎天下でf11くらいに絞り込んでいるし、露出が不足しているショットもあるし、色味もそろっていない。荒っぽい仕上がりである。
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2003年7月31日
Crown Graphic作例
初めての4×5版。
全般にフォーカスが甘い。絞り込まなかったのか。無限遠が合っていないのか。あるいは手持ちでブレたのか。
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2003年7月23日
写真と死
よく指摘されることだが、写真と死とは深い縁がある。「カメラジャーナル 123号」で田中長徳が印象的な文章を記している。
『三日月の出た薄暮の環七を南に歩く。この普段は雑多な道路が、こんな気分で歩行できるのはオザワの生活写真の重さによるものなのだ。人は「日々死につつ」あるが、その日々の細かな死を積分した結果が彼の写真であることに気がつく。つまり写真は生活の手段なのではなく、死を見つめること、つまり生を微分することでもある。これは写真することの基本だ。ただし、そういう「真実の写真」は発表する場などありはしない。そんな本当のことを発表させたがるメディアなどは居ない。そこがオザワの写真の良さである。』
微分・積分の比喩はご愛敬だが、気持ちは理解できる。瞬間を永遠の時間に固定することが写真の本質だとしたら(それは銀塩でもディジタルでも変わらない)、固定されるのは被写体だけでなく、撮影者の生そのものだということである。
なお、写真に記録された人間は死者と同じだと喝破したのは「明るい部屋」のロラン・バルトである。
人物写真は、被写体と撮影者との生の瞬間を留めてしまう。どのような人物写真あれ、被写体と撮影者との関係が記録される。親密であれ、疎遠であれ、盗撮であれ。
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2003年6月19日
Unintended composition
ちょいと気になる物件でした。(写真)