2010年1月13日
「東京骨灰紀行」(小沢信男著、2009年、筑摩書房)
80過ぎのご老人が下町を歩いて歴史を辿る。といっても、下町情緒をしのぶ散策本にはあらず。訪ねるのは、仕置場跡、刑場跡、墓地、記念碑、被服廠跡などなど、お題の「骨灰」にかかわるところばかりだ。東京は江戸と呼ばれていた時代を含めて人口が多い。人がたくさん生きていれば、たくさん死んでいるのも道理。東京には、おびただしい数の死体や骨灰が埋められているのである。
死体や骨灰の中には、刑死、焼死、あるいは戦死など非道な死に方をしたものも多い。とくにこの百年間には、大きな地震と大きな戦で、生きていた人が唐突に死体になることも多かった。事態の深刻さを死人の数で表すのは気が引けるが、10万人でひとくくりという扱いには粛然とさせられる。
骨灰をめぐる散策は両国で始まり両国で終わる。両国駅の南側には古い寺院が、北側には関東大震災で数万人が焼死した被服廠跡がある。通信会社のビルがそびえ立つ被服廠跡近くの記念施設には、先の戦で焼死した多くの人も祀られている。江戸時代の話題では戯作めいていた文章は、被服廠跡地に至って哀調を帯びる。大地震と戦災の死者は、歴史に回収されないリアルな記憶の領域にとどまっているのだ。
ちなみに、わたくしの祖父(父親の父親)も1945年3月10日の東京大空襲で焼死した10万人の一人である。さいわいというか、身元は特定され、遺族にお骨が届けられた。それからおよそ30年後、墓地を移すために骨壺を掘り出した。白い壺の蓋を開けると、茶褐色の骨が見え、同時に焦げたような臭いが漂った。以来、何度か火葬場でお骨を拾ったが、こんなお骨に出くわしたことはない。空襲直後の混乱のなか、十分な焼き方ができなかったのだろう。
祖父の骨についてはもう一つエピソードがある。掘り出した骨壺は、新たな墓所に運ぶ前にいったん自宅にお迎えした。しばらくして、外で水を流す音がする。と同時にあの臭いがまた漂ってきた。祖母が祖父のお骨を洗っていたのだ。その姿を見ることはためらわれた。このとき、赤い夕陽が差していたように記憶している。
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2009年2月15日
「私の鶯」(島津保次郎監督、1943年・東宝+満州映画協会)
李香蘭(山口淑子)の主演した日本・満州国合作映画として映画史に名を残す「私の鶯」。実物は、奇妙な作品で面白かった。
日本人の娘が親と生き別れてロシア人の声楽家に育てられ、二十数年後に父親と再会する。おもな舞台はハルピン。登場人物のほとんどがロシア人で、ロシア人同士の台詞はロシア語。日本人が登場するときもロシア人との会話がほとんどなのでロシア語。すなわち、全編でロシア語台詞に日本語字幕。
満州国が五族共和をスローガンにしていたとはいえ、ロシア人は少数派だ。わざわざロシア人を主役にしてロシア語の映画を作る必然性はない。じっさいのところ、満州映画協会は、満州国の国策映画会社として中国語の映画を製作していた。もちろん、本作でも満州国の建国は高らかに正当化されてはいる。
「私の鶯」には、サモワールで茶を淹れるロシア人の暮らしが描かれ、ロシア語のさまざまな歌劇や歌唱、あるいはコサックダンスショーが次々に登場する。
ロシアのエキゾチシズムを強調する作りは、海外を舞台にした当時のハリウッド映画に通じるものがある。しかも、登場する俳優のほとんどが白人。あたかも、ハリウッド映画そのものを作ろうとしたかのようだ。そして、それは案外うまくいっている。
同じ1943年に東宝で製作された「阿片戦争」(マキノ正博監督)という作品もハリウッド映画さながらだった。題名通り阿片戦争を題材にし、登場人物は中国人と英国人で、日本人の俳優が日本語で演じている。グリフィスの「嵐の孤児」を翻案したというこの作品は、よくできたハリウッドスペクタクルだった。
「私の鶯」も「阿片戦争」も、太平洋戦争の敗色が濃くなりつつある時期に製作されている。映画の統制も厳しくなっている中で、国策に隠れてハリウッドの精神をもった映画を作ってしまったのだ。
李香蘭(山口淑子)の役柄は微妙だ。彼女は、中国語のできる日本人でありながら、日本語のできる中国人女優として日本でも中国でも認知されていた。自伝では、この時期から自分の存在の矛盾に苦しみ始めていたという。本作の役柄はロシア人に育てられた日本人。どんな思いで演じていたのだろうか。
李香蘭(山口淑子)は、サミュエル・フラーの「東京暗黒街・竹の家」という快作(怪作)はあるものの、映画史における名作には恵まれていない。同じ年に生まれ、同じく日本人離れした美貌に恵まれた原節子が、小津安二郎や成瀬巳喜男の名作に出演していることと好対照を成している。もちろん、出演作品よりも本人そのものが映画史、あるいは近代史にとどめられることは間違いないだろう。ちなみに、女優歴は20年だが、政治家(参議院議員)歴は18年に達した。
「私の鶯」で、育ての親が病の床にあってそこに実の父親が登場する場面では、二人の間で煩悶するところを卑俗に落とさず演じている。美貌・美声にくわえて演じる力もあったようだ。ただ、意志的なまなざしに加えて大物感もあり、名匠と言われる監督には素材として使いにくかったかもしれない。
なお、ハルピンにいたロシア人の大半は「白系ロシア人」。ロシア革命の政権(赤色)から逃れてきた人々であり、毛沢東率いる中国共産党が全国を制覇したときは、ハルピンから逃れ出たはずだ。「私の鶯」は、消えていったハルピンのロシア人やロシア文化を記録した。ただし、ロシア人と日本人しかいないように描かれるハルピンで、住民の大多数が中国人だったことは忘れてはならない。
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2008年9月 9日
「不許可写真」(草森紳一著、文春新書)
日中戦争・太平洋戦争期、新聞写真は事前に検閲を受ける必要があった。本書は、毎日新聞大阪本社に保存されていた検閲済み写真を素材にした論考・エッセイである。
真髄は、帯に掲載された以下の一節だろう。
「不許可写真」(当時の国民は見ていない)の大半は、今日の目から見れば、一コマもののマンガである。滑稽である。なぜこんなものが不許可なのか、サッパリわからず、理由をきいて吹き出してしまう。写真を笑うのではなく、不許可の「理由」に笑うのである。」(p.77)
また、こんなくだりもある。
「当時から、日本の宣伝下手は、有名であった。ナチスや共産主義を目指すソ連の国歌宣伝は、統制が一元化され徹底している。「国家とはなにか、それは宣伝である」というところまで行っている。そもそも情報開示も情報閉鎖もないのである。写真ならば、徹底したグラフィック化(謀略)が図られる。アメリカならば、情報開示という名の閉鎖を行う。報道写真の自由を認めることにより大衆を誘導する。キャパの戦争写真は、誘導された宣伝写真ともいえる。報道写真を宣伝写真に転用しようという日本政府や軍部の魂胆は、その点からすれば、ケチすぎる。よくいえば、真面目すぎる。」(p.21)
「ナチス・プロパガンダ 絶対の宣伝」という書物をものした著者ならではの洞察だ。
草森紳一は去る三月に自宅で亡くなった。独居死である。だが、「本が崩れる」を読んだ後では、幸せな死に方に思える。
「不許可写真」には味わい深い記述がそこかしこに散らばっている。いくつか引用しておこう。
「戦争は、長大なる叙事詩の材料である。いや叙事詩そのものである。《略》二〇世紀は、映像(イメージ)の時代である。これが叙事詩を殺したともえる。しかし、この映像なるものが、言語(イメージ)そのものだとわかるのに、ずいぶんと時間がかかっている。いや、いまだってわかっているといえない。《略》しかし、カメラの発明によって、叙事詩は生まれなくなったともいえるのだ。《略》湾岸戦争は、叙事詩たりえない。とつぜん人は血を流して死に、あっというまに都市も破壊されるが、イメージ(文化情報)でしかなく(SF作家ディックのいうシミュラクルである)、空洞無化の戦争である。これを叙事詩にするのは、容易でない。」(p.60)
「死と隣り合わせで戦う兵士たちにとって厄介なのは、勝手にお腹がすく食欲、ついで勝手に精子が蓄積されていく性欲である。軍隊にとって、これらは志気にかかわる重要問題である。食欲と性欲はわかちがたく相関関係にあり、その頂点に生と死がある。戦争とは、エロティシズムの問題である。世界の戦争の裏面史は、「現地調達」の強姦史である。」(p.86)
「時代の空気とは、怖ろしいもので、死骸の写真を見ても、むごいというより、戦争はいやだと思うより、何やらこの世の桎梏から解放され、安らかな眠りについているように思えたりする。今日は、一体どのような時代なのか。」(p.143)
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2008年6月23日
「甘粕正彦 乱心の曠野」(佐野眞一著、新潮社)
甘粕正彦の評伝である。(甘粕正彦の人物についてはこちら)
甘粕については、1975年に角田房子が「甘粕大尉」というすぐれた評伝を上梓している。30数年後に著された本書は、「甘粕大尉」がカバーしていない資料を数多く参照している。その極めつけは、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の検屍報告書。甘粕が他人の罪を被ったという従来からの定説を裏付けるものだ。
さらに本書を特徴づけるのは、関係者への徹底的な聞き取りである。能う限りの関係者すべてにアプローチしたとおぼしい。大杉事件で甘粕と共に有罪判決を受けた下士官たちまで追っているのには驚いた。
大杉事件から80余年、甘粕の死からも60余年。直接の関係者はもちろん、その子供の代もそろそろ物故する頃合いである。証言には記憶違いや、聞き伝えの誤りや、こうあって欲しいという無意識の改変が加わっている。複数の証言の食い違いをたどっていると、事実を再現することよりも、物語が生まれる過程の方を面白く思ってしまう。
そして、甘粕正彦という人物が語り継がれるに足る人物だったことは間違いない。
じつは、わたしも甘粕の関係者に会ったことがある。20数年前、満州映画協会を大学の卒業論文のテーマに選んだからだ。甘粕を冷ややかに語った左翼崩れの映画屋(カツドウ屋)。「甘粕先生は立派な人だった」と語った甘粕の最後の秘書。どちらの語りも、甘粕の人となりのかけらくらいは伝えていたのだろう。甘粕の記憶を40年間抱え続けた人にとっての真実のかけらを。
人の記憶は、生々しい体験から、言葉によって記述される物語に変わることによって定着するという。ましてや、言葉にされなければ、個人の記憶を越えてできごとが語り継がれることはない。歴史はヒストリー、物語はストーリー。フランス語ならどちらもイストワールである
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2007年12月24日
「天皇の日本史」(武光誠・著、平凡社新書)
腰巻きにこうある。
権威と聖性、そして呪性−。天皇はなぜ、その地位を保ち続けたか?日本史最大の謎に挑む!
古代、院政期、平氏政権、鎌倉時代、南北朝・室町時代、安土・桃山、江戸時代。それぞれの時代における朝廷・皇室と時の権力者の関わりが記述される。記述レベルは高校の日本史の教科書と大差なく、「日本史最大の謎に挑む!」という腰巻きの惹句は肩すかし。
とはいえ、読中・読後に思いついたことがあった。
まず、時の権力者が皇室の権威に依拠しつつ皇室を存続させてきたのは、存続していることそれ自体が力になっているからである。存続、力の強化、存続という循環は、まさに「継続は力なり」。
そして、「継続は力なり」が可能であり続けたのは、文化を根本的に異にする外敵に侵略・支配されたことがないからである。これは柄谷行人がどこかで言っていたことの受け売り。
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2004年1月11日
招魂碑(4)
明治40年(1907年)に建立された招魂碑である。
1905年の日本海海戦で連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を撃破した。この碑で讃えられているのは、連合艦隊の旗艦である戦艦三笠の乗員である。といっても、厳密には戦死者ではない。日本海海戦における三笠の戦死者は8人にすぎないが、海戦の後、凱旋した佐世保港で火薬庫の爆発事故を起こして沈没し、339人が命を落とした。そのときの死者である。歴史的な大勝利の直後だっただけに、戦死と同様に扱われたのだろう。
なお、戦艦三笠の数奇な運命はこれにとどまらない。沈没から2年で引き上げられて現役に復帰したものの、1922年のワシントン軍縮会議の決議に従って廃船が決定され、1925年に日露戦争の博物館として保存された。ところが、1945年に占領軍からクレームを受けたため、平和的な施設に転用することで延命が図られた。艦橋、煙突、砲など、甲板にあるほとんどすべてのものが撤去された。砲塔の跡に水族館が設けられ、甲板にダンスホールが建設されたという。1952年、サンフランシスコ講和条約によって日本が独立を回復した後、ふたたび日本の国有財産になったが、荒廃はさらに進んだ。この時期の写真を見ると、さながら巨大な鉄屑である。復元が完了したのは1961年だった。
というわけで、現在の記念館三笠は本物の上に作られた模造品とでもいうべきものなのである。
このあたりの話は、木下直之の「世の途中から隠されていること −近代日本の記憶」(晶文社、2002年刊)という本を参考にした。これは、忘れられたり書き換えられたりした近代日本のさまざまなモニュメントを発掘する趣向の好著である。
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招魂碑(3)
この招魂碑は古い。明治13年、1880年に建立されている。
西南戦争の戦死者を讃えるものである。西南戦争は明治国家確立後の最後の内戦である。これ以降の戦争は対外的な戦争となる。この碑で讃えられている人物は熊本で戦死している。当時の関東の農村では熊本も異国と大差なかったことだろう。
なお、碑文には、納税と兵役が国民の義務となったといった記述が見える。明治初期の国民国家形成期の意識の一端が窺えて興味深い。
投稿者 kmatsu : 22:53 | コメント (0) | トラックバック
招魂碑(2)
墓石だが、招魂碑と同じ意図で建立されたとおぼしき石碑を見つけた。
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ごらんの通り住宅地の道路に面した小さな墓地だが、左手に一基、右手に三基の石碑がある。いずれも個人の墓碑であり、後方の家代々の墓石とはまったく異なる意匠である。また、一基をのぞいてすべてが戒名ではなく俗名と軍の階級が用いられており、戒名が記された一基も俗名と軍の階級が併記されている。戦死者をとくべつに顕彰する意図が見える。三基並んだ墓碑は兄弟だろうか。
投稿者 kmatsu : 22:35 | コメント (0) | トラックバック
2004年1月 6日
招魂碑(1)
近所には防空壕以外の戦跡もあった。
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これは農家の片隅に立てられている。碑面には「陸軍砲兵柏木仙蔵之碑」と彫られている。
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これは農地に立てられている。南方戦線で戦死した人物を讃えている。
いずれも墓地ではなく、道路から見える場所に単独で立てられている。戦死は、自然死、病死、事故死とは違う。お国のための名誉の死でもあれば、戦争に行かなければ避けられた死でもある。そんな思いが、異境でさまよう死霊を招き寄せて顕彰する碑を建てさせたのだろうか。六十年を経てなお碑の周囲は浄められ、花が供えられている。
なお、1869年、東京九段に招魂社という神社が建立された。それが、靖国神社に改められたのは10年後の1879年だった。