2009年6月15日
「手の美術史」(森村泰昌著、二玄社、2009年)
有名絵画から手のアップばかりを収めた画集。
目次 PROLOGUE 「手」を語る 「手」が語る
I 手の誕生 レオナルドの素手がつかむもの
II 手の礼賛 色とりどりの「手」が開花する
III 手の破壊 カラヴァッジョの痙攣する手は地獄門を開く
IV 手の復権 日々の働く手が美しい
V プラドの手 色彩と光に溶け込む手が予兆するもの
VI 手練手管の手 きれいな手の値打ち
VII 手の変容 幸せな手、不幸な手
VIII 手の解体 手は、岩でありダイコンであり紙片である
EPILOGUE 「手」達よ!
手は顔ほどに物を言う。あるいは、顔以上に能弁である。顔が表すたんじゅんな感情よりも、手が指し示す世界の方が複雑にして豊饒なのだ。
「手」に注目すると、「顔」がじゃまになる。 こうなったらしめたものだ。
「顔」に気をとられることなく、
絵がながめられるからである
「顔」ではなく、
「手」が指し示す闇や空、水や火や樹々を見よ。
絵の世界のなんと豊富なこと。
人間の世界のなんとちっぽけなこと。(p.127)
また、絵画史は手を解体する歴史でもあった、ともいう。
画家とは描く人のことである。筆を持つ手は、なによりも大事な身体部位である。その手を現代の画家は解体してしまう。画家達は「手」を放棄したのだろうか。それともこれは、「手」の危機を訴える画家達の最後の一手なのだろうか。(p.159)
森村泰昌は、自身が登場しながら名画を再現する「セルフポートレート」活動を続けてきた。本書の冒頭でも、有名絵画の「手」がまず「セルフポートート」群からまとめて紹介されている。この「手」が顔以上によく似ていることに驚く。
投稿者 kmatsu : 20:53 | コメント (0) | トラックバック
2006年2月 3日
パブリックアート
公共空間に展示されている三次元工作物や絵画を一般にパブリックアートという。上野の西郷さんのような特定個人を顕彰する彫像は、パブリックアートとは呼ばれないようである。なんたって、アート。芸術なのだから。
こちらは駒場の東京大学先端技術研究所構内。題名は見あたらなかった。
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街中でみかけるパブリックアートの彫像ってなぜか裸体が多い。そして気恥ずかしい。
投稿者 kmatsu : 23:59 | コメント (0) | トラックバック
2005年1月30日
マルセル・デュシャンと20世紀美術展
「マルセル・デュシャンと20世紀美術展」(横浜美術館)を観た。デュシャンの代表作と、それに触発されて作られた作品を並列して展示する趣向である。
デュシャンは現代美術史では重要であり、ウンチクを語るネタには事欠かないが、作品そのもののインパクトは弱い。もちろん、ウンチクを語らせるくらいには、作品の置かれた文脈は強力なのだけど。
デュシャンの展示会が日本で開催されるのは1981年以来だという。大学に入って最初に観に行ったのがこの展示会だった。この年、デュシャンの代表作「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(大ガラス)のレプリカが、駒場の教養学部美術館に収蔵され、それも観に行ったっけ。
今回の展示会では、大ガラスのミニチュア《小ガラス》がスーベニアとして販売されていて、ついつい購入してしまった。

左上の花嫁も、左下の独身者たちも、ちんまりしている。
投稿者 kmatsu : 22:36 | コメント (0) | トラックバック
2005年1月22日
国芳 暁斎 何でもこいッ展だィ!
「国芳 暁斎 何でもこいッ展だィ!」(東京ステーションギャラリー)を観た。
歌川国芳は歌川派の浮世絵師、河鍋暁斎は狩野派の絵師である。いずれも、そうした正統の枠には収まりきらない多彩な仕事を残している。尋常ならざる力がこもっていたり、題材の異色さが目を引く。それでいながら、着物などのディテールには、錦絵の伝統の技芸が高度に発揮されている。
いやはや面白い。コンパクトな会場だが、疲れるほど堪能した。
投稿者 kmatsu : 22:21 | コメント (0) | トラックバック
2005年1月16日
ハンス・アルプ展
ハンス・アルプ展を観た(神奈川県立近代美術館 葉山)。
ハンス・アルプという人物は初めて知った。平面作品と立体作品が展示されていたが、何らかのシンボルとして捉えやすいせいか、平面作品の方が印象深い。立体作品は、三次元の具体的な物体であるにもかかわらず、あるいは、であるせいか、抽象度が高めめられている。
同時に展示されていた、矢代幸雄資料展は、ハンス・アルプとは無関係ながら、往年の美術史家の人となりやたたずまいを伝えていて興味深かった。
なお、神奈川県立近代美術館 葉山はこじんまりとしているが、葉山海岸に面した立地条件にめぐまれており、なかなか好ましい。

