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2009年10月20日
「私が書かなかった本」(ジョージ・スタイナー著、伊藤誓他訳、みすず書房、2009年)から(1)
批評家ジョージ・スタイナーの近著「私が書かなかった本」に収められた「妬みについて」には、妬みという仄暗くかつ激烈な感情が、格調高く力強く綴られている。
どんな神話、どんな文化的原型でも、自分では理解できないまま恣意的に不利な立場に立たされるカイン的人物が登場する場合、その人物は必ずアベル的人物を捜し求めるものである。(p.66)
他のところで(『師の教え』のこと)、私は教師と生徒、師と弟子のあいだにある緊張関係の分析を試み、そこには心的な去勢が避けられないとしたことがある。師弟両人において誇りと嫉妬が同時に存在することで、その関係はある意味で矛盾に満ちたものとなる。作用しているのは、悪名高いダブルバインドである。(p.72)
親密な交際、近接した活動の場、距離はあっても同時代を生きること、これらは妬みを生む可能性がある。その際の心臓の鼓動は非情に診断が難しい。なぜならそこには愛情とともに憎悪があり、両方の血流が交じるからである。オーディ・エト・アモ[愛憎]。これらの活動は精神と感受性に関わるもので、性愛の領域にもそのままつながる。(p.76)
オックスブリッジの成績評価記号で言えば「β++」を用いて二流の頂点を表す。私がすでに暗示したように、二流の頂点にいる人が本物の存在を身に沁みて感じるとき、二流降格の苦みはもっとも強い痛みを伴う。自分の作品が外部からどんな報酬が贈られ、どんなに有用であると思われようとも、本物の生命力にはまったく及ばないと納得するときである。(p.80)
(焚刑に処せられた)チェッコは人生最後に残された洞察力と集中力の瞬間において、自分がダンテの至高の天才と名声を妬むライバル、多少とも軽蔑される同時代人であり続けたことを知る。この認識がもたらした苦悶はおそらく、少なくとも一瞬のうちは、言語に絶する激痛をもたらす差し迫った死の予感よりも、よりいっそう残酷であった。(p.83)
投稿者 kmatsu : 2009年10月20日 22:27
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