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2008年6月23日
「甘粕正彦 乱心の曠野」(佐野眞一著、新潮社)
甘粕正彦の評伝である。(甘粕正彦の人物についてはこちら)
甘粕については、1975年に角田房子が「甘粕大尉」というすぐれた評伝を上梓している。30数年後に著された本書は、「甘粕大尉」がカバーしていない資料を数多く参照している。その極めつけは、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の検屍報告書。甘粕が他人の罪を被ったという従来からの定説を裏付けるものだ。
さらに本書を特徴づけるのは、関係者への徹底的な聞き取りである。能う限りの関係者すべてにアプローチしたとおぼしい。大杉事件で甘粕と共に有罪判決を受けた下士官たちまで追っているのには驚いた。
大杉事件から80余年、甘粕の死からも60余年。直接の関係者はもちろん、その子供の代もそろそろ物故する頃合いである。証言には記憶違いや、聞き伝えの誤りや、こうあって欲しいという無意識の改変が加わっている。複数の証言の食い違いをたどっていると、事実を再現することよりも、物語が生まれる過程の方を面白く思ってしまう。
そして、甘粕正彦という人物が語り継がれるに足る人物だったことは間違いない。
じつは、わたしも甘粕の関係者に会ったことがある。20数年前、満州映画協会を大学の卒業論文のテーマに選んだからだ。甘粕を冷ややかに語った左翼崩れの映画屋(カツドウ屋)。「甘粕先生は立派な人だった」と語った甘粕の最後の秘書。どちらの語りも、甘粕の人となりのかけらくらいは伝えていたのだろう。甘粕の記憶を40年間抱え続けた人にとっての真実のかけらを。
人の記憶は、生々しい体験から、言葉によって記述される物語に変わることによって定着するという。ましてや、言葉にされなければ、個人の記憶を越えてできごとが語り継がれることはない。歴史はヒストリー、物語はストーリー。フランス語ならどちらもイストワールである
投稿者 kmatsu : 2008年6月23日 21:08
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