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2008年1月14日

「国家・個人・宗教 」(稲垣久和著、講談社現代新書)

筆者の問題意識は以下にある。

そうではなく、「公と私の二元論」を脱却することなのである。私と公の間に、私から公へと媒介していく公共性を形成するということである。そのとき宗教やスピリチュアリティ(霊性)はどういう役割を果たすべきか。あるいは果たさざるべきであろうか。(p.16)

「公共」は「公」と捉えられることが多い。それに対して著者は断固として反対する。

ほとんど区別されて使われていないのだが、何よりも「公」と「公共」とは違う。大雑把に言えば「公」はお上ないしは国家、「公共」は市民。この区別をはっきりさせて、公と私の二元論ではなく、公と私と公共の三元論を導入し、現在進行している事態をはっきり把握すること。(p.17)

公共性は「友愛に基づいた市民的エートス」であるという。著者が公共性の形成で重視するのは、宗教とスピリチュアリティである。

このようなスピリチュアリティは国家から一元的に強制される公民宗教とはまったく異なる。あくまでも「自立した個人」としての自発性を重んじ、「よき社会」を作るためのエートスとなるものだ。スピリチュアリティは国家ではなく、市民社会の方に働いてこそ意味がある。(p.213)

締めくくりは今後の展望である。

まずは私たち市民が、自らの生活世界に根を張りつつ、生のニーズの解決を工夫して立ち上げ、そこに行政すなわち地方自治体や国家は、権力装置としてでなく福祉装置として機能して、補完の役割を果たすような仕組みを作っていく。統治から自治へ、そして市民と行政が協働する共治へ、と。このような公共性を担うために、市民がお互いに学びあいつつ市民社会を形成すること、そのことが、今後のわれわれが取り組むべき喫緊の課題ではないだろうか。 それは私たち一人ひとりの自覚から始まるのである。(p.214)

ヨーロッパ地方自治憲章の「近接と補完の原理」を思い出す。これを支える精神(著者のいうエートス)が公共性であることは間違いないだろう。

ただし、公共性の形成にスピリチュアリティと宗教が必要というところには疑問が残る。まず、宗教そのものが手段としてはあまり手強い。薬にもなれば毒にもなる。毒については著者が太平洋戦争前の公民宗教たる皇民教育の害を述べている通りである。そして、著者が主張する「宗教全般を学校教育で多元的に扱う」という手法だけで公共性を形成するまでに至るのか。このあたりの説得力が弱い。

投稿者 kmatsu : 2008年1月14日 21:52

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