« 2007年12月 | メイン | 2008年2月 »
2008年1月29日
青空文庫をPalmで読む
長大な小説「大菩薩峠」(中里介山著)を青空文庫のデータで読み切った。
デバイスはPalm Tungsten T5。320*480画素のディスプレイを備えたPDAである。
使ったツールは青空文庫リーダーAzurと、Palmの標準イメージビューアMedia。Mac上のAzurで青空文庫のデータを1ページごとのJPEGファイルに変換し、それをPalmに転送してMediaで読む。
Azurはよくできている。縦書き表示、ルビ、青空文庫タグ、フォント指定、外字イメージ表示、イメージ表示、しおりと一通りの機能がそろっている。Mac(Windows版もあり)で青空文庫の収録作品を読むには最強のリーダーだ。
Azurには1ページごとにJPEGファイルを生成する機能が備わっている。表示エリアもiPod nano(2G)からXGAまで指定可能。イメージビューアがあれば、携帯電話でも、iPodでも、あるいはデジタルカメラでも青空文庫を読むことができるのだ。
問題はPalmの標準イメージビューアMediaにあった。
青空文庫の「大菩薩峠」は41巻の各巻ごとにテキストが分かれていて、テキストをPalmサイズのイメージに変換すると千ページ以上のファイルが生成されることがある。これだけの数のファイルが一つのフォルダーに入っていると、Mediaの動作はきわめて遅い。また、ページをオープンしたまま電源を切ったり他のソフトに移行すると、オープンしたページが保持されない。
37巻まで我慢して読み進めたものの、ついにPookというソフトに乗り換えた。これはPalm上の青空文庫リーダーである。本来のPalmのプログラムらしく軽快に動作する。縦書き表示・ルビ・しおりも可能だ。もちろん、読みかけのページは保持される。
とはいえ、Pookを使わずにいたことには理由があった。
まず、Palmでは320*320画素しか表示されない。今はなきSONY製のPalmOS機Clieでは320*480画素で表示されるのに、元祖Palmには対応していないのだ。そして、文字が読みにくい。英語版PalmOSを日本語化した環境では、メニュー向けの、文章を読むには適さないフォントが表示されてしまう。
それでもついに41巻を読み切った。表示する媒体など気にならない、充実した読書体験だった。
これからもPalmで青空文庫収録作品を読むことがあるだろう。そのために、イメージビューアを探し、Resco Photo Viewerという製品を購入した。日本ではClieが打ち切られてから影の薄いPalmも、米国ではスマートフォンTreoを中心に生き延びているである。
とはいうものの、ついにPalm以外の製品が気になりだした。iPhoneあるいはiPod touchである。やはりこれかと、思案する今日この頃。
投稿者 kmatsu : 21:27 | コメント (1) | トラックバック
2008年1月28日
Movable Type 4.1へのアップグレードで難儀
Movable Type 4.0から4.1へのアップグレードで不具合に遭遇した。2003年にMovable Typteを使い始めてから初めての体験である。
4.1のファイル群をサーバに転送し、mt.cgiからmt-upgrade.cgiの実行中にこんなエラーメッセージが発生。
アップグレード中にエラーが発生しました failed to execute statement ALTER TABLE mt_ts_job ADD CONSTRAINT mt_ts_job_uniqfunc UNIQUE (ts_job_funcid,ts_job_uniqkey): Duplicate key name 'ts_job_funcid' at lib/MT/Upgrade.pm line 2003.
エラーメッセージを検索してみるとこんな記事を発見。この記事に従って、myphpadminを使ってテーブルmt_ts_jobの全レコードを削除。だが、症状は変わらず。
エラーメッセージをじっくり読むと、同じ名前のインデックス(キー)を設定しようとして失敗しているようだ。
そこで、テーブルmt_ts_jobのインデックスts_job_funcidを削除。mt-upgrade.cgiを実行すると、別のテーブルで同じエラーメッセージが出る。同じように重複しているキーを削除。ここでmt-upgrade.cgiを実行すると、最初と同じmt_ts_jobで同じエラーが発生するので、もう一度キーts_job_funcidを削除。あらためてmt-upgrade.cgiを実行してアップグレードは無事に完了。
ウェブのおかげで同様の不具合を探すのは早かった。また、myphpadminのおかげで、SQLを知らなくてもインデックスを削除できた。便利ツールなしでは生きていけない。
こうして、本サイトにこの新しい記事をポストすることができたのである。
投稿者 kmatsu : 21:20 | コメント (0) | トラックバック
2008年1月20日
「日本の女が好きである。」(井上章一著、PHP研究所)
同じ著者の手になる「美人論」(1991年)から17年。美人の見てくれにこだわった本が増えてきたという。
まあ、責任の一端は、私にもあるのかもしれない。あけすけと美人不美人を活字で論じだしたのは、そもそもお前だろう。お前が『美人論』(1991年)なんかを書くから、こんな事態になったんじゃあないか。とまあ、そんないちゃもんも、聞こえてきそうな気がする。 私は『美人論』で、美人に関する言論の歴史をおいかけた。外見はぱっとしなくても、知性のかがやく女を知性美人という。すこやかで明るい女を健康美人とよぶ。ああいったおためごかしは、いつどのようにしてできたのかを、ときあかした。(p.158)
そして、美人論が言論界のタブー=自己規制を考えることに通じると締めくくる。
言論界には、さまざまなタブーがある。容姿がらみのことどもだけに、かぎらない。書くことを、もっと憚るテーマは、たくさんある。人種差別につながる言辞、身体障害をおとしめる言い草、等々である。そして、こういうことをふせたがる度合いは、ますます強くなっている。 《中略》 『ブスのくせに!』といったような本が、刊行されていく。それも、強化されていく言論規制の、はけ口になっているせいだと、私は考える。在日朝鮮人の作家であったつかこうへいが、「ブスをブスだとちゃんと言いきろう」とする。そのことがもつ意味は、あらためて考え直してみたい。(p.161)
言論の自己規制という問題は前著の延長上にある。それとは別の展開の可能性が、あとがきの最後にほのめかされる。
女たちは、目に見えぬチャドルから、ときはなたれてきた。男をそそってあやつる、いわばエロ力(ぢから)の発揮を、社会へみとめさせるようになっている。それをおしとどめようとするおっさんの壁は、つきくずされてきた。つまりは、女権がのしあがっていたのである。 いずれは、美人論も、この方向でまとめなおしたい。(p.165)
本書はさまざまなアイディアの覚え書きといった趣きで、まえがきにも「ラフスケッチ」とことわりがある。個々のテーマの掘り下げが浅い印象は免れない。
建築史から近代風俗史に転向(?)した著者の著作では、「愛の空間」と「パンツが見える。―羞恥心の現代史
」が面白かった。2006年の「夢と魅惑の全体主義
」は建築史時代の積み残しを著作化したものだが、全体主義と建築の関連を論じて示唆に富む。
投稿者 kmatsu : 20:52 | コメント (0) | トラックバック
2008年1月14日
「国家・個人・宗教 」(稲垣久和著、講談社現代新書)
筆者の問題意識は以下にある。
そうではなく、「公と私の二元論」を脱却することなのである。私と公の間に、私から公へと媒介していく公共性を形成するということである。そのとき宗教やスピリチュアリティ(霊性)はどういう役割を果たすべきか。あるいは果たさざるべきであろうか。(p.16)
「公共」は「公」と捉えられることが多い。それに対して著者は断固として反対する。
ほとんど区別されて使われていないのだが、何よりも「公」と「公共」とは違う。大雑把に言えば「公」はお上ないしは国家、「公共」は市民。この区別をはっきりさせて、公と私の二元論ではなく、公と私と公共の三元論を導入し、現在進行している事態をはっきり把握すること。(p.17)
公共性は「友愛に基づいた市民的エートス」であるという。著者が公共性の形成で重視するのは、宗教とスピリチュアリティである。
このようなスピリチュアリティは国家から一元的に強制される公民宗教とはまったく異なる。あくまでも「自立した個人」としての自発性を重んじ、「よき社会」を作るためのエートスとなるものだ。スピリチュアリティは国家ではなく、市民社会の方に働いてこそ意味がある。(p.213)
締めくくりは今後の展望である。
まずは私たち市民が、自らの生活世界に根を張りつつ、生のニーズの解決を工夫して立ち上げ、そこに行政すなわち地方自治体や国家は、権力装置としてでなく福祉装置として機能して、補完の役割を果たすような仕組みを作っていく。統治から自治へ、そして市民と行政が協働する共治へ、と。このような公共性を担うために、市民がお互いに学びあいつつ市民社会を形成すること、そのことが、今後のわれわれが取り組むべき喫緊の課題ではないだろうか。 それは私たち一人ひとりの自覚から始まるのである。(p.214)
ヨーロッパ地方自治憲章の「近接と補完の原理」を思い出す。これを支える精神(著者のいうエートス)が公共性であることは間違いないだろう。
ただし、公共性の形成にスピリチュアリティと宗教が必要というところには疑問が残る。まず、宗教そのものが手段としてはあまり手強い。薬にもなれば毒にもなる。毒については著者が太平洋戦争前の公民宗教たる皇民教育の害を述べている通りである。そして、著者が主張する「宗教全般を学校教育で多元的に扱う」という手法だけで公共性を形成するまでに至るのか。このあたりの説得力が弱い。
投稿者 kmatsu : 21:52 | コメント (0) | トラックバック
「日本の10大新宗教」(島田裕巳著、幻冬舎新書)
日本の新宗教の成り立ちと現況を手短に伝えている。
それぞれの新宗教全般に関する見解は「おわりに」にまとめられている。
新宗教とカルトとを明確に区別することは難しいものの、その教団が過度に終末論を強調し、世の終わりが近いという予言をもとに信者を集めていたり、多額の献金を集めている場合には、反社会的な行動に出る危険性が高まっていると考えることができる。そうした点を指標として、教団の社会性、あるいは反社会性を評価することはできるだろう。(p.209)新宗教がその勢力を拡大するのは、社会が混乱した状況や過渡期にあるときで、とくに経済発展が著しいときに伸びていく。その点で、現在の状況は、新宗教が活況を呈するものにはなっていない。高度経済成長の時代に勢力を拡大した教団も、信仰をいかに下の世代に継承していくかで苦労している。(p.211)
そして、結論はこうだ。
これからどのような新宗教が生まれ、その勢力を拡大していくのか。それは、日本の社会がどの変化していくかにかかっている。新宗教に集まってくるのは、その時代の大きな流れについていくことができなかったり、社会のあり方に不満をもっている人々である。社会が変われば、不満の中身も変わるし、どういった人間が不満をもつかも変わる。その点で、新宗教は時代を映す鏡としての性格を持っている。その鏡に何が映るのか。私たちは新宗教のこれからを見つめていかなければならないのである。(p.213)
投稿者 kmatsu : 21:28 | コメント (0) | トラックバック
2008年1月13日
「ヴィーナス」(ロジャー・ミッシェル監督、2006年)

「ヴィーナス」は、老人が若い女に入れあげるお話である。
老人はピーター・オトゥール。これが素晴らしい。若い女を見るまなざしが、生と性への執着のきわみで絶品。それでいて威厳や気品、さらには老醜や孤独まで演じきる。アラビアのロレンスの青い目は老いてますます妖しい。
老人がヴィーナスと持ち上げる女(ジョディ・ウィッテカー)が、始終スナックやらジャンクフードをつまんでいる感じの悪い娘という設定が面白い。老人の業を強く感じさせる。
老人が若い女に入れあげるお話は多い。小説では「痴人の愛」、映画では「嘆きの天使」。こうした先例とちがって、本作は心温まるエンディングを迎える。
主役だけでなく主要な人物の大半が老人である。友人役のレスター・フィリップも、別居している妻を演じるヴァネッサ・レッドグレーブもとても印象的だ。
老人を主役にした映画には「八月の鯨」(1987年)があった。90歳を越えたリリアン・ギッシュと、80歳近いベティ・デイヴィス。この二人を主役として登場させたことのみが記憶される映画だった。
「ヴィーナス」は、撮影・編集といった映画の基本的な語り口がしっかりして好ましい。そして、ピーター・オトゥールの快演=怪演や老人たちの好演もあって佳作と呼べる作品となっている。
なお、教会のシーンで、墓碑に刻まれた名前は実在の俳優たちである。ボリス・カーロフ、ロバート・ショウ、ローレンス・ハーヴェイ。
投稿者 kmatsu : 21:48 | コメント (0) | トラックバック
2008年1月12日
「数学する精神」(加藤文元著、中公新書)
本書のサブタイトルは「正しさの創造、美しさの発見」である。
この「人間と数学との関わり」というのが、この本を通して流れる最も重要なテーマである。そしてその際重要なキーワードが数学の「正しさ」と「美しさ」である。(はじめに v)「人間と数学」という主要テーマと緊密に絡み合いながら、この本の内容の底流として密かに流れるテーマが数学の「具体的」側面と「抽象的」側面というディコトミー(二分法)である。(はじめに vii)
このように、数学上の記号には意味が不可欠であり、意味が記号を生き生きとさせる。その生き生きとした生命の源に人間がいる以上それは(程度の差こそあれ)何らかの具体性を持つことになる。まさに数学における記号とは、具体と抽象の狭間にある生きた言葉である。(はじめに viii)
事例として、パスカルの三角形、二項展開、組み合わせの数の関連が数章にわたって紹介されている。それぞれ独立した3つのものが、計算過程や法則の「パターン」において同一であるという展開はスリリングだ。それは続く章でさらに深い議論に導かれる。
その意味で、まさに記号としての数式は、いわゆる「作動しつつある言語」という側面を多分にもっている。それはすでに語られた意味のみならず、未だ決して語られたことのない意味を常にわき出させているのである。美しい数式が、たとえ証明されてしまっても、いつまでも人に神秘的な印象を与え続けるのも、そんなところに理由があるのではないだろうか。その意味で、数にしろ空間にしろ、その「肉」とでも言うべきものからどの部分を「見える」ものとして切り出してくるか、つまり一つの「理念」として昇華させるか、ということが人間が行う数学行為というものの意義や芸術性を決める重要な要素なのだろうと思われる。(p.208)
人間が恣意的に決めた形式的な体系が、人間の恣意を越えて途方もない深みや美しさをもつ。あるいは、人智に出でて人智を越えた実在となる。面白い。
投稿者 kmatsu : 20:17 | コメント (0) | トラックバック
2008年1月 7日
電子投票の難しさ
米国では大統領選を前に電子投票の準備が進んでいる。その様子を伝えるNew York Timesの記事。
Voting Machines - Elections - Ballots - Politics - New York Times
印象的な一文はこれ。
Part of the problem stems from the fact that voting requires a level of precision we demand from virtually no other technology.
選挙は一回限りのイベントであり、かつ、結果は当落の二値によって決定的である。当落を判定するための得票数はえてして僅差となる。したがって、投票の結果にはきわだった正確さが要求される。また、その結果に疑義が生じたときは、投票結果が検証可能でなければならない。
It is the need for anonymity that fuels the quest for perfection in voting machines.事態をややこしくするのは、投票には正確さと同時に匿名性(ある種の秘密性)が要求されることだ。無記名投票では、特定の投票者がどの候補者を選択したかを秘匿しなければならない。情報技術では、匿名性と検証可能な正確さを同時に実現することはきわめて難しい。電子投票の難しさはここにある。
日本でも地方自治体の選挙で電子投票が何度か実施されている。不具合が多く、訴訟に至ったケースもある。表面的な問題は機械や記録媒体の故障である。だが、問題の本質は匿名性と検証可能な正確さを、情報技術だけでは実現できていないことにあるのだ。
Critics of touch-screen machines say that the best choice is “optical scan” technology.
この記事の結論は紙に頼ること。タッチスクリーンで直接電子データを作るのではなく、紙にチェックしてそれを光学スキャナーで読み取り電子データを生成する。数え直す必要が生じたときは紙に戻る。匿名性と検証可能な正確さを同時に実現する手段は紙、というわけだ。
米国の電子投票機器には、投票結果をキャッシュレジスター用のプリンタでロールペーパーに印刷・記録するものがある。プリンタは、投票者の手に触れないように透明な窓から見えるように設置されており、投票結果を確定する前に目視するようになっている。とはいえ、印字は小さくて高齢者には読みづらい。また、ロールペーパーでは結果が投票者の順番に記録されてしまうので、投票者が10人しかいないような小さな投票所では個人の投票結果が分かってしまう。そのため、紙に印字する機能を備えない機種を調達した州もあるという。
電子投票というと、自宅のPCや携帯電話で投票する場面を想像する向きも多いだろう。だが、実際には投票所に電子投票機器を設置している。有権者が、強制なく自発的な意志で投票することを保証するためである。また、電子投票機器はスタンドアロンであり、投票終了後に記録媒体を選挙管理委員会運んで集計している。すべての投票所にネットワークを用意し、それを安全に安定して用いることが難しいからである。電子投票機器の主な機能は、ユーザインタフェースと結果の記録。情報技術としては実にローテクである。
「紙頼み」はローテクな情報技術よりさらにローテクである。それでも、投票で必要なものを実現するには、当面は現実解ということだろうか。