« 赤のある風景 | メイン | データセンター in コンテナ »

2007年3月19日

国家と宗教

「国家と宗教」(保坂 俊司 著、光文社新書)は、キリスト教、イスラーム、仏教、そして神道という宗教が、国家・政治といかなる関わりをもったかを論じる。

日本では政教を分離することが当たり前だと考えてしまう。だが、イスラームを信仰する国々では政教一致が原則であるし、あるいは、イラク戦争を始めとするアメリカ合衆国のふるまいはピューリタン的な宗教意識に裏付けられている。

宗教的正義感と熱狂に支えられたピューリタン革命によってもたらされたものが、近代社会の原形であるとすれば、我々がいう近代社会の背後には、極めて強いキリスト教内の一種の改革派であるピューリタン的な宗教世界があることは明白である。...つまり我々は、このピューリタン的な精神によって形成された社会を近代社会と呼び、それを理想的社会、合理的で、脱宗教的な社会と捉えているが、その源には狂信的ともいえる宗教意識があったということを忘れてはならない。...そして、ここに政治と宗教が密接に関わるというセム的伝統の存在を知ることができる。(p.37)

本書は面白い問題をいくつか提起している。

大乗仏教の発展は、非インド系信者(僧侶も含めて)とその思想に負うところが大きかった、としても不自然ではない。つまり、外来の民族がインドに定着する時の社会的な要請において、仏教、特に大乗仏教に特有な普遍性を彼らが求めた、という面もあったということである。だからこそ、大乗仏教はバラモン教から見て辺境な地で隆盛した、ということはいえるのではないだろうか。(p.132)
日本の仏教研究の多くは、インド的な要素にできうるかぎり還元しようとするインド純血主義であり、またその仏教、特に大乗がインド(西・西北)から中央アジアを経て中国、朝鮮、日本等とつらなる開放形の構図を無意識下に前提としており、それが、仏教の日本への東漸の事実を、必然的事実と感じさせる一種の日本人の深層に潜む民族主義的な思考と共鳴し合い、インド仏教に日本的な研究視点を形成しているように筆者には思える。(p.133)
このような視点、つまり分明としての仏教の受容と定着という視点から仏教の受容や展開を見ると、また異なった情況が見えてくる。...仏教が単なる精神論ではなく、文明としての広がりを持っていた事が分かる。(p.163)
昨今、近代社会への反省が唱えられているが、その中で天皇と仏教との関係を正面から論ずることはあまりなされていないように思われる。しかし、真に日本の伝統をふまえて近代を考えるならば、天皇と仏教の関係を、従来のように及び腰に検討するのではなく、より積極的に論じてゆくべきであろう。(p.188)
《明治初期の廃仏毀釈について》しかし、このような宗教弾圧、言い換えれば文化伝統の破壊の行為について、その宗教史的な意味を考察し、あるいは他の地域との比較検討によって明らかにしようとする研究は、決して多くはない。ましてや、こうした歴史的現実の宗教と政治が究極的に不可分となるレヴェルでの考察、つまり筆者のいう宗教的ナショナリズムの視点、さらには文明論の立場からの分析は稀である。...しかも、この現象は実に、仏教という普遍宗教(文明)が、神道という民俗宗教によって排除されるという、インド、中国、朝鮮、そして日本に共通に見られる現象である、という視点は文明論独自のものであろう。(p.190)

著者があとがきで述べるように、いずれの論点も提起のみで終わっている。これらの論点を文明論として展開するには相当の剛腕が必要だろう。なお、文章が生硬なのが気になる。

投稿者 kmatsu : 2007年3月19日 19:28

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://bsx.hundun.net/bm/mt-tb.cgi/767

コメント

コメントしてください




保存しますか?