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2007年1月 9日
中井久夫「樹をみつめて」
「樹をみつめて」(中井久夫著、みすず書房)に印象的な一節があった。
『戦争と平和というが、両者は決して対照的概念ではない。前者は進行してゆく「過程」であり、平和はゆらぎを持つが「状態」である。一般に「過程」は理解しやすく、ヴィヴィッドな、あるいは論理的な語りになる。これに対して「状態」は多面的で、名づけがたく、語りにくく、つかみどころがない。』
戦争はプロジェクトである。勝利というゴールを、一定期間内に、有限のリソースを使って達成する。「プロジェクトX」という番組が成立するように、その過程は明確な輪郭を持った物語となるだろう。思えば、我が国の高度成長期は、成長という最終ゴールを追求する数多のプロジェクトの連続であり、別種の戦争の継続状態ではなかったのか。平和という状態が定常化したのは、この二十年くらいではないか。名づけにくく、語りにくく、つかみどころのない平和が続いているのは。
ただ、中井久夫はこうも語る。
『クラゼヴィッツ型の戦争とは(一)外交目的を果たすもう一つの手段であり、(二)正規軍同士が決戦によって勝敗を決し(直接的アプローチ)、(三)短期で終結し、勝利側に有利であるが合理性を逸脱しない講話締結で終わる。<改行>しかし、これらの条件は稀にしか満たしえない。クラゼヴィッツ型戦争は理想型であり、実は願望思考の産物であるから、実際に経験する戦争は、このモデルからみれば多かれ少なかれ「堕落した戦争」ということになる。』
平和に倦んでくると、戦争への願望が生まれてくる。しかし、「堕落した戦争」はかならず泥沼化する。名づけにくく、語りにくく、つかみどころのない状態としての平和を維持するのは、とても難しいことなのだ。
投稿者 kmatsu : 2007年1月 9日 22:53
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