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2005年12月28日

歴史展示

出雲崎の「天領出雲崎 時代館」は、出雲崎が江戸時代に港町として栄えていた頃の姿を伝える博物館である。
DSCF2982.jpg天領出雲崎 時代館
御奉行船と、往事の街並みを再現する展示が見物である。

一方、長岡の「新潟県立歴史博物館」は、石器時代から近代に至るまでの新潟県の歴史に関する事物を展示している。
DSCF0083.jpg長岡 新潟県立歴史博物館
二階まで雪に埋もれた商店街と、縄文時代の暮らしぶりが大規模に再現されている。

原寸大の人形を配置した再現展示は、ディズニーランドのカリブの海賊だとか、いまはなきドリームランドの大海賊といったアトラクション展示と同じノリである。あるいは、街道沿いの秘宝館や、観光地の展示館に比すこともできよう。どことなしか気恥ずかしさが湧いてくる、間の抜けた雰囲気がたまらない。歴史的事実を再現しようとする、公共博物館ならではのまじめさも伝わってこないではないが。

いずれの博物館も、客はまばらである。バブル崩壊後の盛大な公共投資の遺物とも言えるが、末永く続けてほしいものである。

投稿者 kmatsu : 20:15 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月17日

「カラシニコフ」の語り部

ルポルタージュ「カラシニコフ」の筆者である松本仁一氏の講演を聞いた。

お話の内容は書籍と同様だが、本人の肉声で語られると説得力がいや増す。

国家の基本的な役割は、人々が安全に暮らすことを保証する治安と、子供の将来を拓く教育である。だが、失敗国家では治安を司る軍隊と警察にも、教育を担う教員にも給料が支払われず、治安も教育もまったく機能していない。資源による外貨収入や海外からの援助は一部の人々だけを潤し、ほんとうに必要とする多数の人々には届かない。

今後も、事態は悪化する見通しである。

冷戦が終了し、米国とソ連の対立が解消したため、失敗国家への関心は低下し、かつて失敗国家を維持した莫大な援助は消滅している。豊かな国々にとって、資源のない失敗国家は興味関心の対象ではない。

だが、失敗国家の荒廃は、豊かな国々も無関係ではいられない。失敗国家の人々は仕事も希望もない自国を見捨てて豊かな国々に流入し、社会不安を増大させる。のみならず、荒廃国家には豊かな国々への怨嗟があふれ、そこに痛撃を与えようとするテロリストの温床となる。

サミュエル・ハンチントンは、キリスト教とイスラム教の二大文明の衝突の必然を語ったが、衝突するのは二大文明ではなく、富者と貧者である。

失敗国家の人々を援助するには、政府間援助ではなくNGOがよいという。NGOの適格性の審査は難しいが、政府を援助してもほんとうに必要とする人々には届かない。

こうした重いお話が中心だったが、松本氏ご本人は、著作にあふれる正義感だけでなくウィットを兼ね備えた立派な紳士だった。別の著作「アフリカを食べる」の内容を紹介するときの楽しそうなご様子が微笑ましかった。

投稿者 kmatsu : 22:48 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月13日

酒蔵訪問

新潟県南魚沼市塩沢の青木酒造という酒蔵を訪れた。「鶴齢」という銘柄である。
DSCF0062.jpg

御年、三十三歳という御当主が酒造りの現場を案内してくださった。
DSCF0055.jpg
身の丈六尺以上の偉丈夫で、上野の西郷さんを思わせる風貌である。この風貌に違わず酒造りへの思いは熱い。何でも、母上の実家を継ぐことになったのは大学生のときで、そのとき、劇画「夏子の酒」によって酒造りの基本を学んだという。

米所新潟の、しかも魚沼郡といえばコシヒカリで有名だが、酒米は兵庫県の山田錦を使っている。米所新潟の酒は、そこで産する米で作るものだと信じ込んでいたので、この話は新鮮だった。

新潟の酒は端麗辛口という言葉で紹介されることが多い。だが、「鶴齢」は端麗旨口を標榜している。雪国の料理は味付けの濃い保存食が中心であり、それに相応しい酒は濃い味だそうだ。発酵中のもろみ(「あわ」という)を煮汁に使う豪華な鍋物をいただきながら、端麗旨口を堪能した。

投稿者 kmatsu : 22:03 | コメント (2) | トラックバック

2005年12月12日

ALWAYS 三丁目の夕日

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の上映が延長されたという。
http://www.always3.jp/

11月の公開前後にCFがテレビで頻繁に放映されていたが、建造途中の東京タワーというショッキングなビジュアルは、モスラに寄り添われた東京タワーの姿に匹敵するインパクトだった。

というわけで、この作品の見所は、特撮で再現された昭和30年代の東京の風景に尽きる。

無闇にすっきりしている上野駅前、服部時計店が高くそびえている銀座。建造中の東京タワーが背景に見える京浜国道とおぼしき大通りには、行き交う自動車も少ない。あたかも当時の映画のロケシーンを見るようである。

ただし、映画としてはてんでなっていない。

とつぜん見ず知らずの子供の世話をする仕儀になったというシチュエーションなら、山中貞雄の「丹下左膳余話・百万両の壺」だとか、ジョン・カサベテスの「グロリア」という名作が目白押しである。同じ土俵に並べるだけでも、巨匠たちに対して礼を失する。

だが、と再び本作を持ち上げる。捏造された昭和三十年代の風景が強烈な魅力を放っていることはまちがいない。

映画は、「メトロポリス」の昔から魅力的な未来都市を描き続けてきた。こうした映画が描いた未来が到来したはずの時期に我々は生きている。我々の眼に映じる現在の都市は、過去の映画の未来都市ほどに魅力的だろうか。

あるいは、我々は数十年後の未来の姿を、数十年前の映画のように魅力的に描くことはできるだろうか。

そのかわり、我々は数十年前の過去を描き、それに心惹かれている。

投稿者 kmatsu : 22:44 | コメント (0) | トラックバック