2005年1月30日
マルセル・デュシャンと20世紀美術展
「マルセル・デュシャンと20世紀美術展」(横浜美術館)を観た。デュシャンの代表作と、それに触発されて作られた作品を並列して展示する趣向である。
デュシャンは現代美術史では重要であり、ウンチクを語るネタには事欠かないが、作品そのもののインパクトは弱い。もちろん、ウンチクを語らせるくらいには、作品の置かれた文脈は強力なのだけど。
デュシャンの展示会が日本で開催されるのは1981年以来だという。大学に入って最初に観に行ったのがこの展示会だった。この年、デュシャンの代表作「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(大ガラス)のレプリカが、駒場の教養学部美術館に収蔵され、それも観に行ったっけ。
今回の展示会では、大ガラスのミニチュア《小ガラス》がスーベニアとして販売されていて、ついつい購入してしまった。

左上の花嫁も、左下の独身者たちも、ちんまりしている。
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2005年1月29日
処刑電流
「処刑電流 エジソン、電流戦争と電気椅子の発明」(リチャード・モラン著、岩館葉子訳、みすず書房)を読んだ。「処刑電流」という題名はきわどいが、電気椅子の誕生の顛末を描く生真面目な研究書である。
電気椅子の誕生には、電力業界のライバル2社の対立が深く関わっていた。両社を率いるのは、発明王エジソンと、実業家のウェスチングハウスである。エジソンは直流を、ウェスチングハウスは交流を採用していた。現在の送電システムが交流を採用しているとおり、電気椅子が誕生する頃には交流の優位性が明らかになりつつあった。エジソンは、交流に負のイメージを与えるために、電気椅子に交流を採用させたという。
電気椅子によって最初に処刑された人物の、事件記録、裁判記録、そして処刑場面も詳細に紹介されている。
19世紀は、犯罪と刑罰のありようが変貌を遂げた時期であった。死刑は、お祭りの気分を伴った公開のイベントだったが、電気椅子が採用された時期から、非公開で執行されるようになった。ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」が描くように、犯罪の重大さに応じて、刑罰としての拘束期間の長短が計量され、最高レベルの刑罰として死刑が位置付けられたのである。
なお、死刑の執行が、殺人以外のなにものでもないことが、つよく印象づけられる。死刑の廃止、死刑を前提とした捜査・裁判制度の改正など、世の議論はさまざまだが、まず、この一点だけは明確に意識しなければならない。
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2005年1月24日
日本の自立
「日本の自立 対米協調とアジア外交」(北岡伸一著、中央公論社)を読んだ。
著者は外交史研究者である。国民国家(群)から世界システムが構成されていること、さらに米国がそこで主導権を握っていること。この二つを大きな前提として、政治と外交を論じる。スタンスはきわだって現実的であり、かつての自分なら、反発を覚えないではいられなかっただろう。
だが、「カラシニコフ」に描かれるような、国民国家すら成立していない地域の悲惨さを想起すれば、圧倒的な現実としての世界システムを所与とし、その中でよりマシな政治と外交を求めるのはまっとうな発想ではある。
なお、著者は、昨年、大学教授を辞して国連次席大使に赴任している。言行は一致している。俳優の内藤剛史に似ていると思うが、誰も同意してくれない。
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2005年1月22日
国芳 暁斎 何でもこいッ展だィ!
「国芳 暁斎 何でもこいッ展だィ!」(東京ステーションギャラリー)を観た。
歌川国芳は歌川派の浮世絵師、河鍋暁斎は狩野派の絵師である。いずれも、そうした正統の枠には収まりきらない多彩な仕事を残している。尋常ならざる力がこもっていたり、題材の異色さが目を引く。それでいながら、着物などのディテールには、錦絵の伝統の技芸が高度に発揮されている。
いやはや面白い。コンパクトな会場だが、疲れるほど堪能した。
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2005年1月16日
ハンス・アルプ展
ハンス・アルプ展を観た(神奈川県立近代美術館 葉山)。
ハンス・アルプという人物は初めて知った。平面作品と立体作品が展示されていたが、何らかのシンボルとして捉えやすいせいか、平面作品の方が印象深い。立体作品は、三次元の具体的な物体であるにもかかわらず、あるいは、であるせいか、抽象度が高めめられている。
同時に展示されていた、矢代幸雄資料展は、ハンス・アルプとは無関係ながら、往年の美術史家の人となりやたたずまいを伝えていて興味深かった。
なお、神奈川県立近代美術館 葉山はこじんまりとしているが、葉山海岸に面した立地条件にめぐまれており、なかなか好ましい。
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2005年1月 9日
カラシニコフ
「カラシニコフ」(松本仁一著、朝日新聞社、2004) を読んだ。
朝日新聞に2004年に掲載された連載記事を書籍化している。連載中も気になっていた。
カラシニコフとは、旧ソ連で設計された自動小銃AKシリーズのことである。ソ連だけでなく旧東側諸国で生産され、世界の紛争地では必ず目にする。頑丈で故障が少ないので、アメリカ、ドイツ、ベルギーで作られた自動小銃より信頼されているという。
本書には、紛争が続くアフリカの諸国のレポートと、AKシリーズの設計者、カラシニコフ氏へのインタビューが掲げられている。
イマニュエル・ウォーラースタインが唱えるところの世界システムとは、独立した国民国家群で構成される経済・社会的なシステムである。本書は、国家として世界地図上で区分されているものの、国民国家として実質的に機能していない失敗国家の実態を報告する。そして、こうした失敗国家が、国民にどれだけ過酷な生活を強いるかが繰り返し描かれる。
アメリカ合衆国を帝国と仰ぐグローバリズムだのグローバルスタンダードは、資源産地としても市場としても価値が低く、また、テロの温床としての危険も少ない地域は、まったく相手にしていない。そんな、忘れ去られた地域の生活は、暴力と略奪と飢えにあふれ、何より、将来への希望がまったくない。
世界の夜景を示す衛星写真がある。それを人口密度に対する明るさの比で示したものが以下に掲げられている。
「街の灯」(hirax.net)
衛星写真はあたかも神の視点のようだが、地上の生活を想像してみると、なんだか切ない。
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2005年1月 8日
自転車
1年前から自転車に乗っている。
発端は、家人が貰ってきたポンコツ自転車だった。変速機もなく、ハンドルはママチャリスタイル、着座位置は低めといった典型的な実用車である。
最初は近場を数キロ程度走るだけだったが、次第に10キロ、20キロと走行距離が伸び、ついには40キロを越えるに至った。その間、スピードメーターを取付け、シートポストを高いものに交換し、ハンドルをフラットバーに交換するなど強化を図ったが、所詮、実用車の素性は覆いがたい。長距離を走るのには向いていない。
そこで、ついに4月末にスポーツ車を購入した。MoultonのAPB-8である。これも、購入してから、ドロップハンドル化、駆動系のコンポーネント交換などの改造を施している。
先日、ママチャリ時代から使っているスピードメーターの積算距離が4000キロを越えた。家で乗っている自動車と競うくらいの走行距離である。

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2005年1月 4日
iPodのバッテリー交換
iPodのバッテリーを自力で交換した。
所有しているiPodは、2年数ヶ月前に購入した第二世代である。透明なプラスティックのエッジが立っていて、その後の丸っこい世代よりよいデザインだと思う。
だが、バッテリがヘタってしまった。40分と連続再生できない。アップルに修理を依頼すると1万5千円以上かかるという。そこで、Newer Technology社のバッテリー交換キットをVis-a-visの通販で購入した。
工具が付属している。交換するときは、この工具をプラスティックと金属の隙間に押し込んでぐりぐりと広げていく。正直言って、冷や冷やした。
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交換後のバッテリーは、とくに初期型のiPodでは、オリジナルより容量が大きく、再生時間は格段に長い。お悩みの方は、ぜひ試みられたい。
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2005年1月 3日
新春の映像
森の中。家人のプライバシーを保護しようとしたら不気味になってしまった。
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2005年1月 1日
新・正体不明
赤瀬川原平の「新・正体不明」(東京書籍)を読んだ。いや、写真+文章なので、観て読んだ、というか。
前作「正体不明」はちょうど十年前だった。町中の珍妙な物件を写真と文章で紹介する趣向は基本的に変わらない。ただ、ご本人の後書きにあるように、十年前は物件そのものへの興味が先行していたが、今回はその細部に興味が移行している。結果として伝わるのは、雰囲気やたたずまい、すなわち風情とでもよぶべき領域である。
老人になるなら、こんな境地に達したいものである。
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間違ったさよなら
矢作俊彦の「THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ」を読んだ。
この作家は、世の事物が急速に安易に変わっていくことに対して、ずっと違和感を呈してきた。ハードボイルド小説でそれを声高に語ると、スノビッシュの謗りは免れない。だが、昨年の「ららら科學の子」は見事だった。1960年代末に中華人民共和国に渡って農村に下放されていた男が、二十一世紀を迎えてから日本に戻ってきたときに感じる違和感こそ、この作家が本領を発揮する場面である。
本作は、レイモンド・チャンドラーの「長い別れ」をベースにしているという。そんな本歌取りは別として、「間違ったさよなら」が様々な登場人物(ハードボイルド小説の通例に従って、ストーリーは錯綜としている)によって語られるのが味わい深い。幼少時に両親と死に別れた女性バイオリニストは、「誰かにちょっとさよならを言うだけで、もう二度と会えないような気がするの」と言う。現役を引退した元刑事は、「しかし、また今度でも何でもいい、別れも言わずにいなくなられるのは、いくつになってもたまらないさ」と語る。
ストーリー本体も「間違ったさよなら」を中心に展開する。矢作俊彦の熱心な読者以外には薦めにくいけど、面白く読み通すことができた。
なお、探偵(刑事)の主人公が、作中で何度も気を失うのも、この種の小説の通例である。