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2003年7月23日
写真と死
よく指摘されることだが、写真と死とは深い縁がある。「カメラジャーナル 123号」で田中長徳が印象的な文章を記している。
『三日月の出た薄暮の環七を南に歩く。この普段は雑多な道路が、こんな気分で歩行できるのはオザワの生活写真の重さによるものなのだ。人は「日々死につつ」あるが、その日々の細かな死を積分した結果が彼の写真であることに気がつく。つまり写真は生活の手段なのではなく、死を見つめること、つまり生を微分することでもある。これは写真することの基本だ。ただし、そういう「真実の写真」は発表する場などありはしない。そんな本当のことを発表させたがるメディアなどは居ない。そこがオザワの写真の良さである。』
微分・積分の比喩はご愛敬だが、気持ちは理解できる。瞬間を永遠の時間に固定することが写真の本質だとしたら(それは銀塩でもディジタルでも変わらない)、固定されるのは被写体だけでなく、撮影者の生そのものだということである。
なお、写真に記録された人間は死者と同じだと喝破したのは「明るい部屋」のロラン・バルトである。
人物写真は、被写体と撮影者との生の瞬間を留めてしまう。どのような人物写真あれ、被写体と撮影者との関係が記録される。親密であれ、疎遠であれ、盗撮であれ。
投稿者 kmatsu : 2003年7月23日 23:34
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