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2003年7月31日

Crown Graphic作例

初めての4×5版。

作例1
作例2

全般にフォーカスが甘い。絞り込まなかったのか。無限遠が合っていないのか。あるいは手持ちでブレたのか。

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Change the world

エリック・クラプトンの "Change the world" という曲を知ったのは、1998年1月のマニラである。

マニラはちょうど大統領選挙の直前で、後に不正疑惑で退陣したエストラーダと、上院議員のデベネシアが競っていた。泊まっていたホテルの近くに、デベネシアの野外応援会場があった。フィリピンの大統領選挙はお祭りである。選挙期間中、野外応援会場で何度も応援イベントが開催される。イベントは夕方から開催されるが、デベネシアの応援会場では昼間から同じ曲が繰り返し流されていた。それが "Change the world" である。

そのときは蒸し暑いマニラのけだるい雰囲気にふさわしい思っただけだった。だが、よくよく考えてみれば大統領選挙で"Change the world" である。「世界を変えろ」、下世話に言えば「世直ししようぜ」という直截なメッセージだ。とはいえ、この曲は威勢よく世の中を変えようというのではなく、「変わったらいいな」という実現不可能な願望をつぶやいているだけである。そのせいか、デベネシアはエストラーダに敗れた。

今でも"Change the world" を聞くたびに、マニラの蒸し暑くけだるい昼下がりを思い出す。

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2003年7月30日

君主論

マキアヴェリの「君主論」(池田廉訳、中公文庫)を読んだ。

「性悪説の権化」から「ルネッサンスの時代精神の象徴」に至るまでさまざまな評価を受けてきているが、人間について的確ないしは興味深い描写をしていることが、古典として読み継がれる所以だろう。比較しても仕方ないが、エリック・ホッファーのアフォリズムより深く印象的である。

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2003年7月28日

Walking with ROBOT ROYAL35

先週、ROBOT ROYAL35を抱えて鎌倉界隈を散歩したときの作例である。どうってことはないが、ホオズキの季節だったんですね。

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HASSELBLAD 500C

お休みなのでカメラの話題ばかりである。HASSELBLAD 500Cを抱えて散歩に出かけた。

レンズは標準のPlanar 80mm/f2.8ではなく、Planar 100mm/f3.5である。これはある中古カメラ屋のオヤジに勧められたものである。その後、Distagon 50mm/f4も購入したが、いまだに80mmは持っていない。Planar 100mm/f3.5の描写はすばらしい。解像力だけでなく、階調の豊富さが際だっている。同じ6×6版のミノルタ オートコードのRokkor 75mm/f3.5と比較すると、階調の情報量が8ビットくらい多い気がする。もちろん、Rokkor 75mm/f3.5も解像力は優れているのだが、価格相応の違いかね。

などといいながら、本日の散歩撮影は直射日光下でf8〜16くらいの絞りを多用したので、陰影に富んだ階調とは無縁だった。

久しぶりにHASSELBLADのウェストレベルファインダーを使ってみると、世界が新鮮に見える。6×6版の正方形フォーマットは形而上学的だ、と誰かが書いていたが、ウェストレベルファインダーも被写体を対象化するのに寄与している。対象に没入するのではなく、醒めた視点を維持できるというか。

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2003年7月27日

Robot Royal36

Robyot Royal36を調整した。簡単な改造である。巻き取りパトローネのフィルムが出入りする口にあるモルトプレーンを除去した。除去するまではスプリングをフルチャージしても数枚しか撮影できなかったが、この調整で20枚程度撮影できるようになった。フィルムが通過する抵抗が減少したらしい。

試写したが、シュナイダーのクセナー45mm/f2.8は逆光に弱い。ハイライトが多いと画像全体のコントラストが如実に低下する。加えて、ピンボケが多い。といっても、これは撮影者の技量の問題だろう。シャッターリリースボタンの感触のせいで、ブレているのかも知れない。ピンボケの問題は撮影者の訓練で解消できる。往年の自動カメラ(自動巻き上げカメラ)を使いこなしてみたい。

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ジャック・タチ

ジャン・クロード・カリエールといえば1960年代以降のルイス・ブニュエル映画の脚本を手がけたことで有名だが、デビュー作はジャック・タチの「僕の叔父さんの休暇」のノベライゼーションだったという。これは絵本雑誌「Pooka」(学習研究社)で知った。また、タチ映画のポスターでイラストを描いたのはピエール・エテックスという人物とのこと。カリエールとエテックスによるタチ映画以外の絵本もあるらしい。

ちなみに、ジャック・タチの呪われた大作「プレイタイム」が近年再評価されているという。10年前に見たときは、完全主義者が歯止めを失った暴走大作だと思った。その徹底ぶりを評価することもできるのだろうが、寒々とした印象だったと記憶している。むしろ、数年後の "Traffic" (これは日本ではテレビ放映のみ)が、こじんまりとしてはいるものの、「僕の叔父さんの休暇」や「僕の叔父さん」を彷彿とさせる作品だった。

ジャック・タチという人、「僕の叔父さん」で分かるとおり、たんにほのぼのとした洒落たコメディという枠に収まりきらない完全主義者の毒をもっている。「プレイタイム」は毒ばかりが目立ったということかな。

「僕の叔父さんの休暇」や「僕の叔父さん」を見たくなった。

そういえば、1980年代初頭に伊丹十三が編集長を務めた「モノンクル」という雑誌の名前は「僕の叔父さん」から取っているのかね。

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2003年7月26日

イギリスの歓び

雑誌「芸術新潮」の最新号は「イギリスの歓び 美術で巡るとっておきの旅ガイド」である。

まずスコットランドのあたりを読んだ。スコットランドは美術で見るべきものはないが、風景がすばらしい。とくに北部のハイランドは、これが「嵐が丘」の風土と納得できる荒涼とした風景である。シングルモルトウィスキーを飲みたくなった。

また、都築響一が「珍日本紀行」のノリで奇妙な美術館・博物館を紹介しているが、これが秀逸。なんといっても、イギリスといえば奇人・変人の宝庫である。世界の変人をアルファベット順に紹介したジャン・クロード・カリエールの「世界奇人博覧会」(正確なタイトルを失念)でも、イギリス人の登場が多い。

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2003年7月24日

Crown Graphic到着

eBayで落札したCrown Graphicが到着した。レンジファインダーが側面に取り付けられている初期型である。状態は50年前にしてはよいだろう。とはいえ、Tシャツの上でいじり回していたら、ホコリまみれになってしまった。レンズ(Kodak Ektar 127mm/f4.7)はとてもきれいである。撮影が楽しみだ。

さっそく、レンズのホコリを払い、ビューファインダーを分解して清掃した。ビューファインダーは簡単な構造だが、パララックス補正ダイヤルのクリックストップを実現する小鋼球のセッティングに手間取った。こんなことも楽しい。あっという間に夜が更けた。

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2003年7月23日

魂の錬金術

エリック・ホッファーの「魂の錬金術」(中本義彦訳、作品社)を読んだ。

「沖仲仕の哲学者」ホッファーの全アフォリズム集である。アフォリズムは、人間のさまざまな断面を気の利いた短文で記すものだが、ホッファーには、ロシュフーコーのような皮肉はなく、パスカルのような厭世観もなく、ニーチェのような空威張りもない。全般に穏やかな表現で好感は覚えるけど、これぞという印象の強いものはない。そこがよいのかも知れないけど。

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写真と死

よく指摘されることだが、写真と死とは深い縁がある。「カメラジャーナル 123号」で田中長徳が印象的な文章を記している。

『三日月の出た薄暮の環七を南に歩く。この普段は雑多な道路が、こんな気分で歩行できるのはオザワの生活写真の重さによるものなのだ。人は「日々死につつ」あるが、その日々の細かな死を積分した結果が彼の写真であることに気がつく。つまり写真は生活の手段なのではなく、死を見つめること、つまり生を微分することでもある。これは写真することの基本だ。ただし、そういう「真実の写真」は発表する場などありはしない。そんな本当のことを発表させたがるメディアなどは居ない。そこがオザワの写真の良さである。』

微分・積分の比喩はご愛敬だが、気持ちは理解できる。瞬間を永遠の時間に固定することが写真の本質だとしたら(それは銀塩でもディジタルでも変わらない)、固定されるのは被写体だけでなく、撮影者の生そのものだということである。

なお、写真に記録された人間は死者と同じだと喝破したのは「明るい部屋」のロラン・バルトである。

人物写真は、被写体と撮影者との生の瞬間を留めてしまう。どのような人物写真あれ、被写体と撮影者との関係が記録される。親密であれ、疎遠であれ、盗撮であれ。

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2003年7月21日

NATIONS AND NATIONALISM

Ernest Gellnerの"NATIONS AND NATIONALISM"(Cornell University Press, 1983)を読み終えた。Benedict Andersonの"IMAGINED COMMUNITY"と同様に、国民国家論の基本書だそうだ。

農耕社会と比較した国民国家の特徴を、産業社会、均質性、ハイカルチャー(国民文化)、教育機会の均等化などにあると説く。本書はナショナリズム研究の概念フレームワークを提示しているが、Andersonの"IMAGINED COMMUNITY"は東南アジアを中心としたケーススタディを提供していると位置づけられる。

両書とも発表から20年以上が経過した。軍事力が米国に一極集中したことによって、ナショナリズムはより屈折せざるをえない。それは、日本という国民国家でも同じである。

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2003年7月20日

Whitebook

Whitebookという雑誌は、ハイアット、ポルシェ、ブルトハウプ、シティバンク、ドン・ペリニョン、ハリー・ウィンストン、バング&オルフセン、カッシーナ、ジョルジョ・アルマーニといったブランドがスポンサーを務める。書店では売っていない。これらのブランドの顧客に郵送される。

それぞれのブランドの製品・サービスの紹介だけでなく、林望、国境なき医師団、船越桂といった記事が掲載されている。道楽、ノーブレス・オブリージェ、アートと、テーマ選びにもソツがない。なお、製品・サービスの紹介記事には、値段・価格といった下世話な情報は提示されていない。

書店で販売される雑誌なら BRIO と同じ読者層かね。可処分所得が高い人々、もしくはその予備軍を対象とする。もちろん、わたくしはそのいずれでもない。

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楽園の島

雑誌 Brutus の最新号は「楽園の島へ」という特集である。異国の島々ではなく、日本列島の島々を北海道から沖縄まで紹介している。とはいえ、やはり興味は南の島へ向かう。沖縄の強烈な日差しと、くたびれたコンクリートの建物を思い出す。もちろん、小熊英二の「日本人の境界」を思い出すと、軽々しく楽園などと口にするのは憚られるのだが。

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2003年7月18日

古書遭遇

長年探していた書物に遭遇した。ドゥニ・ディドロの「ダランベールの夢」(岩波文庫)である。17年前、雑誌のブックガイドで浅田彰が紹介していたのを見て以来、古本屋に入るたび探してきた。ありきたりの岩波文庫だが意外と見つからず、結局、17年を経て地元の古本屋で見つけた。巡り合わせである。

ブックガイドは、確か朝日ジャーナルの別冊だった。時代を感じる。

そして、長年探していた書物は、手元に一ヶ月あってまだ読んでいない。

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2003年7月15日

天皇の戦争責任・再考

「天皇の戦争責任・再考」(洋泉社の新書y)を読んだ。著者は、小浜逸郎、池田清彦、井崎正敏、橋爪大三郎、小谷野敦、八木秀次、吉田司。この中で、池田、井崎、八木の三人は初見。

今までの天皇責任論を総括したり、新しい視点を提示しようとする者が多いが、印象は薄い。

中では、偽悪的な文体を弄する吉田司が印象に残る。「天皇」といえば「昭和天皇の戦争責任」しか想起できない言説の貧しさをあざ笑い、「平成天皇」が平和憲法体制を護持するために戦っていると断じる。即位十周年記念式典で琉歌を流した話は知らなかったが、日韓共同開催のワールドカップを迎える前年の天皇誕生日の「お言葉」は確かに記憶に残っている。天皇の血統が百済につながることに触れ、「韓国とのゆかしさを感じます」と発言したのである。

なお、「新しい歴史教科書をつくる会」に関わった橋爪大三郎が昭和天皇に戦争責任ありと結論しているところは、いまのナショナリズムが皇室への尊崇の念とは切り離されているという小熊英二の指摘通りである。

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古駄本屋

高級でない本で思い出したことが一つ。

十数年前、ある観光地である。店構えはありきたりの古本屋だが、尋常ならざる雰囲気を感じる。まず、置いてある書物が古い。五十年はゆうに経過した本ばかりである。そして、ふつう町の古本屋に積み上げてあるマンガや雑誌のたぐいがない。

さらに気づくのは、品揃えが大衆小説や実用書といった駄本ばかりということだ。今では忘れ去られた作家や小説、家政書や料理書。古家具や古道具といったオブジェと違って、古さが面白さになるほどのものでもない。必要とするのは物好きな研究者か、本と時代を共有した人々だけだろう。

もちろん、店主は老人である。老人の老人による老人のための古本屋。

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2003年7月14日

性と愛の日本語講座

小谷野敦の「性と愛の日本語講座」(筑摩新書)を読んだ。

面白いのだけど、この人、個人的には近づきたくない。あまり高級でない小説や文書を渉猟する研究方法は井上章一に学んだのだそうだけど、成果から受ける印象がはなはだしく違う。井上章一の「愛の空間」や「パンツが見える」には痛快さを覚えるが、小谷野敦からは陰湿な印象を受ける。

などといいながら、小谷野敦の文章から目が離せないのだから、自分にも似ているところがあるのだろうな。きっと。

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2003年7月13日

窓の満月

つまらないことを思い出した。中学生のときのことである。

その日、校庭で遊んでいた我々は二階の物理科教室の窓に異様なものを見つけた。丸い物体である。この物体はやや赤みがかった白色で、暗い物理学教室の内部に対してあたかも満月のように映えていた。我々はその物体を固唾を飲んで凝視した。

突然、その物体が動き出した。我々は思わず声を上げた。すると、窓の中には物理科の教師が我々を不審がるかのように佇んでいた。我々は気がついた。その教師は窓際にある暖房用のラジエータグリルを調整するためにかがみ込み、頭頂部を外部に曝していたのである。

我々が笑いの発作に陥り、物理科の教師が呆気にとられていたことは言うまでもない。十代のほろ苦い記憶である。

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2003年7月12日

反歴史論

宇野邦一「反歴史論」(せりか書房)を読んだ。歴史を捉えなおす試みに期待して通読したが、結局、感興は湧かなかった。帯に曰く「思想と歴史の交錯点に光をあて、20世紀思想の核心をなす主題<存在・無意識・時間・主体・イメージ>を根源的に問い直し、歴史的思考の呪縛の構造を打ち破る大胆な試み。」だそうだ。

参照する人々は、小林秀雄、柳田国男、レヴィストロース、ドゥルーズ、ベンヤミン、バタイユ、などなど。バタイユはネオアカのころの流行だったけど、このごろはベンヤミンかね。

以前、特に名を秘す某大学の近所の居酒屋で隣り合わせた連中が現代思想ネタで盛り上がっていたが、ファイヤーベントやガダマーが、と騒いでいたっけ。

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2003年7月11日

よこしま

ななめにストライプが入ったシャツを着ていた男にざれごとで「よこしまなヤツ!」と軽口をたたいて気づいたが、「よこしま」って「横縞」とは違うのだろうか。

確かに横縞にはよからぬイメージがある。横縞の衣服といったら、囚人服だ。横縞という意匠は西欧由来というわけではなく、日本でも伝統的に横縞の衣服を着用している人間はただならぬ輩だったようだ。そういえば、横縞の衣服を愛用していた人物といえば、まっさきにパブロ・ピカソを思い出す。眼光炯々として精力的で、なかなかアヤしいジジイだった。

辞書を引いてみたら「横縞」は「よこじま」と読むらしい。「よこしま」の「しま」は「縞」ではなく、様子・状態をあらわす接尾語とのことだ。

そういえば、ユイスマンスには「さかしま」という作品があったっけ。読んだことはないけど。

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2003年7月 9日

コンサルタントの時代

「コンサルタントの時代」(鴨志田 晃著、文春新書)を読んだ。

コンサルタントという人種には悪い印象を持っている。とくに外資系のITコンサルタントは会った人間の大半がスカである。外資系ITコンサルティングファーム(なんで「コンサルティング会社」と言わないのだろう)は、情報システム商売の規模を拡大するためにSE相当のコンサルタントを粗製濫造している。焼き畑農業に近い商売だ。長くは続かないだろう。

今まで会ったコンサル人種の中で唯一好感を覚えた男はこの状況を憂えていた。きまじめな男だった。本書の著者にも同じ種類のきまじめさを感じた。

大量生産・高品質の製造業が往年の輝きを失った今は知識こそ商売の源泉であるという。この主張そのものに目新しさはないが、目標を達成するために努力を惜しむなというメッセージはじつは高度成長期を支えたメンタリティに近い。そして、知的な資質を持った人間は、資質なりの義務を果たせとも聞こえる。新たなモーレツの勧め。きびしいな。

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2003年7月 8日

科学史年表

「科学史年表」(小山慶太著、中公新書)を読んだ。「科学史400年の歴史を読む」という趣向だが、小学生のときに読みふけった学習百科大事典(小学館)の科学の記述を思い出しながら読み進んだ。

それにしても、この100年の記述の多さに感心する。もちろん、歴史はつねに現在に近いほど記述が多くなるものだが、この100年の科学史の分かりにくさも格別である。19世紀までの古典科学はまだ日常の感覚の延長にあるのだが、相対性理論や、量子力学や、素粒子論は日常からかけ離れている。そこが面白いともいえるのだけど。

そして、古典科学が成立するまでの科学を、哲学者や(デモクリトスやアリストテレス以来の自然哲学の伝統)、有閑階級や、アマチュアが担っていたのも印象的である。

そういえば、scienceは分科学から始まったのだっけ。銀座の近藤書店のブックカバーには、"Scientia est potentia"(知は力なり)と記されていたっけ。その上にあったイエナ書房はなくなってしまったな。などなど、思い出にふける梅雨寒の夜である。

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2003年7月 6日

5000K

机上のスタンドランプを高演色蛍光灯に替えた。演色性能値Ra99だそうだが、意味はよく分からない。色温度は5000K(ケルビン)である。太陽の表面温度は6000Kと習った記憶があるが、晴天時の昼光の平均色温度は5000Kだそうだ。大気などの通過物が色温度を下げているのだろうか。

この高演色蛍光灯が20Wと40Wしかないので、20Wの蛍光灯を使えるスタンドを探した。Zライトシリーズで該当品を見つけたが、これが家電の量販店にない。お勉強机のスタンドはZライトと相場が決まっていたはずだが、様変わりしたのか。仕方ないので、製造元の山田照明のショールームにまで買いに行った。珍しい客だと思われたようだ。

もちろん、モニタの色温度も5000Kに設定した。マッキントッシュの標準9300Kに比べると黄色いが、標準が青すぎるのである。

総投資額は1万8千円くらい。ささやかな満足を得た、ような気がする。

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2003年7月 5日

蛇を踏む

川上弘美の「蛇を踏む」(新潮文庫)を読んだ。内田百ケン(門がまえ+月)の「冥土」といった怪異小説の伝統に属する。また、短いエピソードを連ねた「惜夜記(あたらよき)」を読んでいたら、稲垣足穂の「一千一秒物語」を思い出した。ただし、稲垣足穂はイデア界の住人だが、川上弘美は妖怪界に帰属する。乱暴な言い方をすれば、それぞれ、男性的(マッチョではなくイデアを指向するという点で)、女性的と言えるだろう。

でも、川上弘美の小説は怪異ものより性愛ものを好む。

「溺レル」は性愛ものの極致である。中年という年齢域に属する男女の性愛の機微を描いて哀切きわまりない。いや、自分が中年に属しているから心が動かされるのかも知れないけど。

「センセイの鞄」は性愛と怪異趣味が好バランス。バランスがいいなんてのは不思議な言い方だけど。そういえば、「センセイの鞄」は、今はなき平凡社の雑誌「太陽」に連載されていた。一緒に旅行するエピソードが掲載された号をたまたま読んだときは、けったいなお話だと思ったものだ。

「太陽」といえば、これこそオヤジ雑誌の王道である。「サライ」だの「ペン」だの「オブラ」だのといったオヤジ雑誌が逆立ちしても追いつけない風格を備えていた。「太陽」の廃刊は、日本のオヤジ界の貧相さを現している。

投稿者 kmatsu : 21:04 | コメント (0) | トラックバック

2003年7月 4日

サイレントギター

帰宅したらヤマハサイレントギター(ガット弦)が届いていた。買ったわけではない。渡辺香津美の「ギタールネッサンス」についていた応募ハガキを送付したら、当たってしまったのだ。定価6万2千円である。懸賞でこんな高額商品を当てたのは生まれて初めてだ。一生分の運を使い果たしてなければよいが。

なお、サイレントギターの音は良好である。糸巻きやネックなどギターとしての基本機能もしっかりしている。足りないのは演奏者の技量だけである。やれやれ。

投稿者 kmatsu : 22:40 | コメント (0) | トラックバック

2003年7月 1日

「茶化す」で思い出したけど、「ヘソで茶を沸かす」といい、「茶」って冷やかしのニュアンスがあるようだ。「茶にする」、「茶を言う」、「茶を挽く」などという成句もあるらしい。「茶を濁す」は別かな。

投稿者 kmatsu : 21:27 | コメント (4) | トラックバック

美しい日本の掲示板

「美しい日本の掲示板」(鈴木淳史、洋泉社新書)を読んだ。2チャンネルを中心とした掲示板サイトが連句(俳諧連歌)だとか、落書(らくしょ)だとか、落首(らくしゅ)の伝統に連なるという牽強付会が気軽に楽しめる。そして、何でもマターリと平板化してしまうのが日本文化の本質だという決めつけは、世にはびこる日本論を茶化していながら、これまた一つの日本論となっていて面白い。

この著者は、西洋古典音楽に関わる書物を同じ版元から何冊か出している。とくに西洋古典音楽に巣くう評論家諸氏をからかった「クラシック批評こてんぱん」は楽しめた。どんなジャンルでも事情は同じなのかね。

投稿者 kmatsu : 20:52 | コメント (0) | トラックバック